Last update: Nov.5/1999
今や、その筋では知らない人のない?Orquesta A La Gente。実はできちゃったオルケスタであったと言う事実はほとんど知られていない。
あれは1988年の秋だった。
当時某派遣会社社員だったHyde丹羽は、鎌倉の某MPC社に派遣されており、藤沢に居た。さんざんごねた挙句の派遣であったので、異例な処置で月に2回は「仕事」と称して名古屋へ帰っていたが、生活は藤沢であった。そんな折、Hydeとしては名古屋のCDのメンバ募集のつもりでJazzLifeにいつものごとくメンバ募集を出した。ところが、このときの連絡先が藤沢の住所になっていたために、間違いは始まったのであった。先に連絡を受けたのは、Timbalの田中氏であったか?はたまたTp小倉氏であったか、謎のカンタンテ志望、間瀬氏であったか。とにかく、その三人から連絡をもらい、最初は「名古屋のバンドの話だから」とお断りモードだったのだが、この三名の連絡によって「まてよ….?」と考え直してみたわけだった。
その年の夏、一度きりのライブバンドとして盛りあがった「海の家オールスターズ」で再会を果たしたスーサン陶山(Bajo)にその友達の来島(Perc.)田中氏のTimb.小倉氏のTp。ホーンセクションは小倉氏参加のビッグバンドから引っ張って来れそうという。ここまできたら、後はPianoだけ。と言っているまにピアノもビッグバンドの伝で何とか見つかりそうという。ここへ来てニワかにサルサバンドができちゃいそうな気配とあいなった。 そこで、Hydeはスーサンに電話をした「実はさ、サルサバンドができちゃいそうなんだけど、Bajoやってくんない?」
同様に大学の後輩である栗山君に声をかけ、また、Bajo陶山が「サルサボーカルをやってみたいとおもっていた」お姉さんミチキータを連れてきて、年の瀬も押し詰まったクリスマス、新宿はNSビルB1にあったサントリーの店で初ミーティングとなった。 初回ミーティング参加者は、小倉、下田、栗山、陶山、来島、Hyde丹羽となっている。
初ミーティングでは、Hydeの派遣期限の関係から、ライブを3月後半から4月に行うこと、ひとまずこの一度きりのライブを目標にしたバンドとすることが確認された。また、曲目については、このときには確定しなかったが、候補の曲目を持ちかえって検討することとなり、また、翌年1/8にも2次ミーティングを実施した。
2次ミーティング参加は、小倉、小西、佐々木、下田、陶山、田中、間瀬夫妻、丹羽。
結局結成時メンバは、次の通り。
Canta&幹事 | Hyde丹羽 | 何時でも抜けられるよう、要のパートにはつかないようにフロントに立った、というのは表向きの理由で実はCantaをやるのが夢だった |
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Canta y Coro | ミチキータ小西 | R&Bとかソウル系がもともとの嗜好だが、セリアクルースを聞いてはまってしまったお姉さん。この人のだんなさんと、スーサンと私は、よくサンタナの話題で盛りあがった |
Canta, Coro y Guiro | カルロス間瀬 | 低音の魅力で迫る怪しいおぢさんだったが、音程も怪しかった |
Pf | 下田 | すごく几帳面なピアノでした |
Bajo y Coro | スーサン陶山 | コロにMCに大活躍。ブッキング担当でもあった |
Conga | 栗山 | 一時はロープーを目指したが、今はリーマン人生を歩んでいるらしい |
Bongo | Gonzales Quitallima | もっとも怪しい男。口ひげを生やしていた当時はどうみても日本人にはみえなかった。bongoより「あ~!ウッ!!」が得意 |
Timbales | 田中 | 塾の校長さんだった。これもなかなか怪しい本職ドラマー |
Tp | 小倉 | とにかく大きな音のTp。ホーンの譜面担当。最近はあまりラテンをやっていないらしい。 |
Tp | ネコ佐々木 | ちょっと線が細いが、なかなかに楽しい雰囲気が和む人 |
Tb | 児玉 | 現在のアラヘンテバンマスにして、唯一のオリジナルメンバ。ボントロもその後すばらしい上達振りで、とてもおんなじ人とは思えない。一番まじめな人だった。 |
練習は、町田のスタジオ・FLYと座間の日産の近くにあったスタジオ・ホワイトハウスの2ヶ所が使われた。 この人数を収容するスタジオはなかなかなく取るのもむずかしい。
町田のスタジオ・FLYはナンかステージのようなものがあって、ミニライブもできるとかいうスタジオ。座間のホワイトハウスは、大きい部屋だったが、薄汚かった記憶がある。
1月2月3月と3ヶ月間で何回練習できたのだろうか?毎週はできなかったから、6回か7回ぐらいだったと思う(当時の手帳があればわかるが)。
練習、ミーティングを重ね、急増バンドながら、次第にバンドとしても盛りあがっていった。2月に入ると曲目も絞られ、3月に入る頃には、ライブも4月1日、高円寺Ritzと決定した。
そんな折、どういう伝だったか記録がないので定かでないが、Hydeに1通の手紙が舞い込む(実は電話だったかも知れない)。「横浜博での演奏依頼」であった。横浜博の中南米ブースをプロデュースする会社からのオファーで、ゴールデンウィーク中さまざまな中南米の音楽のデモ演奏を日替わりでやりたいらしい。Hydeとしては、当時ゴールデンウィークはすでに任務を終えて名古屋へ帰還しているはずであったので、迷ったのだが、皆にもはかり、4/29で受けることにした。
このときってギャラが出たんだっけ、確か。
そして迎えた、’89年4月1日。高円寺Ritz。Orquesta A La Gente初舞台である。対バンはロカビリー風のロックンロールバンドだったと思う。A La Genteの方が先に出たと思う。決して内輪の客だけではなかったはずだが、危なっかしい演奏の割には、多いに受け、アンコールももらってしまった。でも、アンコールされてもやるレパートリーがない^^;) 仕方がないので、もう一度オープニングナンバーをやった。このときのLiveで栗山君のTimbalスタンドを片付ける際に道端に置いておいたところ、見事に盗まれてしまった。あんなもん盗むやつも居るんだー、と感心した次第。
横浜では、気負いもなく、リラックスした演奏となった。リラックスしすぎて、デキは良くなかったが、幾ばくかギャラをいただいた、と思うが定かではない。
横浜博以降も幸いバンドは継続した。ただし、カルロス間瀬氏は路線問題などから、早々に脱退。下田氏も仕事多忙から脱退。来島はこれを最後に、北海道に帰ってしまい、同年11月に行ったHyde披露パーティにはこの3名の参加はなかった。そして、ここに、かのデザイナ小菅氏が登場となるわけである。たしかBongoでの参加であったはず(Congaに栗山が居たしね)。
アラヘンテはその後もメンバチェンジを繰り返しながら、児玉さんの尽力によって、地道な活動を続け、クロコにも出演、’94年にはサルデコにも出演している。今や、押しも押されぬ関東サルサバンドの雄である。もう、最初の頃とはまったくの別モンである。素晴らしい。これも、すべて児玉さんの努力の賜物である。脱帽。
年月 | タイトル | 場所 | 曲目・内容/メンバ | ||
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1989 | 4月1日 | タイトルなし |
高円寺 | RITZ | Vengan Todos A Bailar(Michiquita)/ Soy Anitllano(Hyde)/ Por Si Te Vuelvo Aber(Carlos)/ De Nuevo Soy Feliz(Hyde)/ Puede(Carlos)/ Bemba Colora(Michiquita)/ No Me Paren La Salsa(Descarga)/ Vengan Todos A Bailar(Michiquita) |
Hyde丹羽/ミチキータ小西/カルロス間瀬(Canta y Coro)、 スーサン陶山(Bajo y Coro)、下田(Piano) 栗山(Conga)、ゴンサーレス来島(Bongo)、田中(Timb)、 小倉/ネコ佐々木(Tp)、児玉(Tb) |
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1989 | 4月29日 | 横浜博’89中南米ブースデモ演奏 |
横浜みなと未来地区 | 中南米ブース | Vengan Todos A Bailar(Michiquita)/ Soy Anitllano(Hyde)/ De Nuevo Soy Feliz(Hyde)/ No Me Paren La Salsa(Descarga) Vengan Todos A Bailar(Michiquita)/ De Nuevo Soy Feliz(Hyde)/ Puede(Carlos)/ Bemba Colora(Michiquita) 2ステージかことによると3ステージやったかも知れない。記録としては、そのうちの1ステージ分が残っている。一回分を30分以内にということだったので、4曲ぐらいしかやっていない。間瀬さんの曲もやったと思うし、Bemba Coloraもやったと思う。
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Hyde丹羽/ミチキータ小西/カルロス間瀬(Canta y Coro)、 スーサン陶山(Bajo y Coro)、下田(Piano) 栗山(Conga)、ゴンサーレス来島(Bongo)、田中(Timb)、 小倉/ネコ佐々木(Tp)、児玉(Tb) |