東海サルサ歴史館第4回と5回は、「Ruben Blades初来日公演」

☆名古屋にきた最初の本場サルサアーティストはRuben Bladesだった

1989年7月Ruben Bladesが初来日。クラブクアトロを中心に各地で公演を行っ た。このツアーでは、名古屋公演が名古屋クラブクアトロで行われた。これが本場サルサアーティストの初来名だった。
率いるバンドはSon del Solar。当時、しばらくホーンレスでやっていた形態をトロンバンガにもどした編成でニューアルバムを出したばかりだった。
曲目は新旧取り混ぜて、といってもSeis Del Solar以降のものが中心だった。 楽曲、演奏、ルベンの歌、すべてが素晴らしいと思った。
レロライ倶楽部の面々も久しぶりに顔をそろえた。
この日のために、しばらく途絶えていた「レロライ」の6号を、無理やり一人で作り上げ、ばら撒いた。確かお店の中でこっそり配って回ったように記憶し ている。
このときの「レロライ」配布がきっかけでお知り合いになった方も多い。
まだ、インターネットなんてものは日本ではほとんど知られておらず、 当時の名古屋サルサ界(なんてものはなかったけど)には、まさに一大事件だった。

これ以降、しばらくはカリビアンカーニバルの名の元、年に1回から2回、サルサやメレンゲのアーティストが来日、名古屋公演も行われたものである。

以下にそのライブでばら撒いた「レロライ6号」の記事を掲載する。
ちなみに、この来日の時まで、正しい名前の読み方を知らず、私は「ルーベン ・ブラデス」と読んでいた^^;)ちょっと長文です。

☆Ruben Bladesがやってくる!!    Hyde 1989 7.25

いやぁ、めでたい。待望のルベーン・ブレイズ(Ruben Blades)初来日、しかも その初日が名古屋初の本場サルサ・ライブである。「栄で本場サルサが聞ける 日」がとうとう実現したのだ。しかも、サルサ界から世界に打って出たスーパ ースター、ルベーン・ブレイズなのだ。
 ルベーン・ブレイズはパナマ生まれ。NYに出てまずソング・ライターとして スタートする傍ら、レイ・バレットのオルケスタなどで歌手をつとめる。「レイ・バレット・ライブ-トゥモロウ」でのティト・ゴメスとの「グァラレ」や 「バン・バン・ケレ」等の名唱を残しているが、彼に「ギターをかついだ渡り鳥」風のファースト・ソロ・アルバムがあることはあまり知られていない。
 彼の名声が一気に上がるのはウィリー・コローンとのコンビ以降である。以来、コローンの得意とするトロンバンガ・サウンドが彼とのコンビ解消以降も ルベーンのトレード・マークとなる。実質上のデビューとなった「メティエン ド・マノ」は、そのポップなサウンドとはうらはらに日本のサルサファンには おなじみの(?)「パブロ・プエブロ」等厳しいスパニッシュ・ハーレム”バリオ ”の現実をも映しだしている。
 次作の「シエンブラ」が彼の人気を絶対的なものにする。特に「ペドロ・ナバーハ」の大ヒットはNYのみならず汎カリブ的なヒットになった。同時に「プラスティコ」「シエンブラ」等のメッセージ・ソングも含む大作であり、この 辺りのメッセージは満を持してリリースされたドラマ・アルバム「マエストラ・ビーダ」に結実している。しかし、次作「カンシオネス・デル・ソラール・ デ・ロス・アブリドズ」では、ネタを出し尽くしたのか小粒な作品となってい る。
 当時のファニアはボクシングと映画にも手を出しており、そんな折にルベーン主演のB級映画「ラスト・ファイト」が制作されている。その映画と同時リリースとなった(サントラではない)「ラスト・ファイト」、映画の方はどうしようもなかったが、特に8分に及ぶ大作「ジョ・プエドビビール・デル・アモー ル」やボビー・ロドリゲスに書いたものをリメイクした「ホワット・ハプンド」等、こちらの音はなかなか見事な出来である。しかし、ウィリー・コローンと のコンビもこのあたりまで。これを最後にコンビを解消する。このあとファニアには「レル・ケ・アセ・ラ・パガ」を残しているが中途半端な出来となっている。
 ’84年ルベーンはメジャーのエレクトラに移籍、ホーンレスのバンド、セイス ・デル・ソラールでメジャー市場に進出する。記念すべきその第一作「ブスカンド・アメリカ」はまだまだ試行錯誤のあとが生々しいが、名曲「トドス・ブ エルベン」はその後、彼主演の映画「クロスオーバー・ドリーム」(サントラ)のテーマとなり(アフロキューバンフォーマットでこの曲を取り上げた)元祖のビルヒリオ・マルティと共演する。
 2作目「エセーナス」ではそのホーンレス路線がほぼ確立されている。前作であった
バイブは姿を消し、シンセサイザーがメロディを押さえている。ドラムスがロ ック色を強めており、ラスト・ナンバーの「ムエベテ」はディスコ向けで英語 バージョンも出た。
 3作目「アグア・デ・ルナ」は既に安定成長型の音になっており、一定水準の音とバジュナータへの挑戦等の試みはあるものの、ガルシア・マルケスの本からとったという曲名とは裏腹にまとまりを欠くものだった。
 その後の彼は「サン・シティ」への参加、ルー・リード、ジョー・ジャクソ ンとの共演、映画「ミラグロス」出演、ノン・サルサのソロ・アルバム「ナッシング・バット・ザ・トゥルース」を発表する等英語圏での活動に中心を移していたが、一転トロンバンガ・サウノのソン・デル・ソラールを率いてのアル バム「アンテセデンテ」をリリースした。
 なお、エレクトラ移籍以降もファニアから未発表テープ集が2枚発表されている。’84年リリースの「ムーチョ・メホール」は曲数は少ないもののなかなかの 佳作でボレーロ版の「シエンブラ」やドゥワップ・チャチャの「ムーチョ・メ ホール」、ヒット・チャートNo.1をとった「アモール・パケ」等が収められている。その後リリースされた「ダブル・フィロ」はさすがに残りテープというイメージで完成度も低く、エクトル・ラボーの大ヒット のリメイク版「エル・カンタンテ」等悲しくなるような不出来である。
 さて、最近のルベーンはウィリー・コローンとも和解し、再びトロンバンガ でスパニッシュ・フィールドからの活動をしていると聞く。来日公演は何しろ名古屋が初日、メンバーも良くわからないが、きっとサルサを演ってくれるだろうと期待している。
 もし彼が英語で歌うことがあれば、力一杯ブーイングしたい。やはり彼はラ ティーノであるのだから。

ルベーンブレイズ ディスコグラフィ(略)

(レロライ~名古屋サルサ通信~ #0004 2000/09/28および#0005 2000/10/04から)