1982年3月ごろ

1982年の3月ごろだった。中南米音楽編集部の佐藤由美さんからHydeのところに電話が入る。「サルサバンドのほうはどう?」「いやその、まいったな」ってな感じで、記事になることになった。掲載は1982年6月号。

で、これが「ギターをぶら下げてティンバレスを叩く」サルセーロとして紹介された写真。Hydeがギターを持っている数少ない写真でもある(アルバムごと丸っと無くしてしまったので)。
で以下がその記事だ。中南米音楽さんに残っているただ一冊のバックナンバーからご好意でコピーしていただいた。 (なお、後にOrquesta A La Genteを立ち上げたO氏から掲載本誌をご好意でいただいたので、掲載写真は本誌からスキャンしたものに差し替え済)

本来ならいけないことであるが、本文も打ちこんでしまおう。ちなみにこの文章が佐藤由美さんによるものっだ。

アマチュア・プレーヤー大集合!12

奇妙奇天烈と言うなかれ!
サルサをやってるポップス・バンド

電気通信大学 マリアッチ

青葉繁れるこの季節には、爽快を絵に描いたような音楽との出会いがよろしい。スッと汗をかいた後の渇きが、実に健康的である。今月ここにお目見えするグループは、サルサのバンド。サルサ・バンドながら”マリアッチ※1”と名乗っている。「なんでマリアッチなのよ!」と固いセリフを吐くのは、このページの流儀ではないので、批判しないで下さい。 青葉繁れるきょうこのごろ・・・・サルサとの出会いが、まさに苦悩の爽快さなのだ。

■「方針が変わっちゃったんですよ。まいったな」

勇ましいサルサ・バンドがあることを知ったのは、オピニオン・プラザへの投稿があったからで、ずっと期が熟するのを待って、爽快シーズン到来とともに早速電話してみた。そしたらこうだ。
「いやー、方針がついこの間変わっちゃったんです。まいったな」
現在、メンバーは9人。その9人を集めて3月にミーティングを持った時・・・・
「ラテンにこだわらず広くフュージョンをやる、という方針になったんです」と苦笑いするのがリーダーであり、グループ名゛マリアッチ”を高校時代からまる4年間引きずってきた丹羽英人くん。
「僕の意見だけが雑誌にのっかるのはマズいけど、もっとサルサをやりたいと思ってます。モンゴ・サンタマリアやティト・プエンテ※2を。でもムリ。なんでかなー」多少、ここら辺に若者の苦悩が漂うのだ。いいぞ、この雰囲気。

■「ベースのヤツが言うんだ。サルサをやると胃が痛いって」

「問題は多い。まずベースのヤツが、サルサをやると胃が痛くなる。サルサのベースはアタマがないでしょ。でもベースがリズムをとることになるから、彼にズッシリ重みがかかって・・・・・。ヴォーカルが入るころにはすごくリズムが遅くなるわけです。アタマがないから嫌いだって、サルサをやりたがらないんだ※3
マリアッチの悩みの最大の部分、それは協力サルサ・ファンはリーダーだけという問題のようだ。
「八神純子、門あさ美、山下久美子・・・・それでもラテンぽいものにはしてるんですがね。でもこれだけは意地、ってんで2曲サルサをやってます。デル・ソルの『ケ・アレグリア』と『ムンド・クルエル』。ハハハ・・・・」
ちょっと空ろな笑いだったみたい。

■打楽器をそろえるってのもたいへんなことなのだ

「今日も5時からバイトです。勤労青少年だからね」
丹羽くんはバイトでためた金でFAS(ファニア・オールスターズ)のLPやらをドサッと買いこんで、更にパーカッションを揃えた苦労話をしてくれる。
「中古の中古のそのまた中古ぐらいのコンガを買いました。これがどうしようもないコンガで。ボスッボスッ。前の持ち主のしめ方が悪かったんだ※4。そんでパールのティンバレスを買ったんですが、これが良くない。パイラの音がまるでドラムカン叩いてるみたい。胴の肉が厚すぎるんですね※5。せいぜい5000円分ケチらずにヤマハの中古にすればよかった。パイラの音は仕方がないからリムでがまんしてんですけど※6
去年1年間、サイフとにらみ合いを繰り返した勤労青少年の悲哀である。

■サンタナからラテン界へ突入したギター少年

さっき「高校時代から引きずってきた”マリアッチ”」と書いたけれど、この丹羽くんの出発点はサンタナだったという。アルバムを何度もしつこく聴いて、そのあと松岡直也のサルサ・タッチが気に入ったそうだ。高校3年の時をマリアッチ第1期とすると、大学に入って第2期を迎え、ここまでがサンタナ・バンド。去年の秋にメンバが集まってラテン・フュージョン街道に辿り着いたのが第3期。松岡直也やウィリー・ボボをやっていた。して、再び多少のメンバー・チェンジで現在の第4期に※7
でも本人はアタマ掻き掻き、第1期、第2期・・・・などというものではない、そんな呼称はひたすら個人的に悦にいるもんだから関係ないね、と言うのだ。

■悩めるポップス・バンドよ、がんばってくれたまえ!

謙遜という文字は、学生に不必要かも知れない。ただし、この謙遜が怠惰な笑いを近頃は伴う傾向があって、特に学生の態度にこのテが多いやね。はき違えてるよ、パンツ(や、ちがったか)。
が、マリアッチにおける謙遜は「ポップス・バンドだから・・・・」という苦さである。ポップスにもラテン色を入れるつもりだけど。どこまで濃くなれるかな、という苦さ。「あと一人はせめてパーカッション奏者が欲しい」と丹羽くん。
6月には読売ランドで学生音楽サークル振興会が催す「ユニッジ・フェスティバル」に出演(6月6、13、20日の日曜だが、そのどれかに出演)する。彼も、もう4年生だから「12月ごろ定期演奏会※8やって、どこかのライブハウス※9にでも出たい。それでおしまいかな・・・」と、1年限りの一抹の淋しさも、なぜかつきまとうのである。う-残念!

※1:マリアッチ

バンド名は、高校の時につけた。当時サンタナコピーをやるということで、それらしいスペイン語で、サンタナ出身地のメキシコに関連する名前を探してきたというわけ。後になってわかったことだが、カルロスの親父さんというのが、マリアッチバンドのバイオリニストだったらしい。

※2:モンゴ・サンタマリアやティト・プエンテ

当時、全然情報がなかったので、サルサのアーティストにどんな人がいるのかもわからなかった。いわゆるニューヨークラテンというカテゴリのものをあさり始めたわけだが、ジャズやサンタナに近い人達しかわからなかった。今の私ならモンゴ・サンタマリアをサルサの人とはいわないだろうな。

※3:アタマがないから嫌いだって、サルサをやりたがらないんだ

ベースは山田君といって、ポップス系やファンク系などがうまいベースだったが、ベードラが鳴っていないと困っちゃうタイプの人だった。

※4:前の持ち主のしめ方が悪かったんだ

これ、変なこといってますね。しめ方うんぬんもあるのですが、もう皮が伸びきっていて、しかも紙のようになってました。ただし、このときのメンバで川崎方面のジーンズ屋さんの店員の徳永さんが叩くと、それでも良い音がしたものです。
ちなみのこのコンガの皮はこの半年後ついにやぶれてしまいます。多分フジのだとおもわれるのですが、薄っぺらなファイバーのコンガです。皮は破れたあと、経堂のワダでゴンポップスの皮に張り替えてもらいました。不思議なことに、リングをつけて整形していない生の皮の在庫がひとつあって、どなただったが、目の前で張り替えをしてくれました。
皮をぬるま湯につけて寝かしてやわらかくしたものを胴にかぶせ、リングを上からかぶせて、皮をリングのところでおり返し、端同士を対角線状に6箇所ほどタコ糸で結びます。その上からリムを持ってきてしめていく。
2~3日かわかしていくうちに張ってきて糸が切れてくる。実際には4日ぐらい放置して半分ぐらいの糸がきれました。この張り方が本当の方法なのか、今もわかりませんが、当時の糸の端がついたままのこのコンガは2022年6月ごろまで所有していましたが、移住に際して楽器を絞り込むなかで、BookOffで売りました。

※5:胴の肉が厚すぎるんですね

胴の厚さはともかく、ひどい音です。こいつは2008年頃にマーク近藤に譲るまで所有していました。形がよくないのだろうなと今は思っています。

※6:リムでがまんしてんですけど

ユニッジフェスに出るためのデモテープでもパイラでは無くて、リムを叩いている。でも結構らしく聞こえてますよ。ちなみにこのデモに使った曲は「ラムのラブソング」でした。ユニッジフェスでは、ついにパーカッションに専念することになりました。

※7:現在の第4期に

ユニッジフェスに出たのちバンドは空中分解。というより、Hyde以外の主要メンバで別のポップスバンドを作っちゃったってことです。その後、4年の学祭の時に、軽音の後輩の協力を仰いで間に合わせでサンタナバンドをこしらえました。それが、最後かな。いうなれば第5期です。もうこのころは完全にパーカッショニストでした。

※8:定期演奏会

そんな、間に合わせバンドだから、定演に出られるわけもなく。

※9:どこかのライブハウス

このどこかのライブハウスに出るという目標は別の形で達成された。
第5期のマリアッチでパーカッションを担当したのが、武蔵野音楽学院(大学の近くにありました)でドラムを習っていた人で、この人の伝で、ラテンフュージョンバンド「サルバドーレ」というバンドにさそわれた。私の参加したのは2回。12月。昼の部の渋谷屋根裏と3月の高円寺・次郎吉。
渋谷屋根裏は思い出したくもないが、テープはこの時のものしか残っていない。 記憶では客は3人、それも対バンの友達だったらしい。
次郎吉は結構言い出来だった記憶がある。なんかパーティ企画だったと思うが、客も結構一杯入って、ノリもよく、大変盛りあがった。残念なことにこのときのテープは送ってくれるといっていたのだが、結局送られてこなかった。
このバンドのピアニストは、村松健だった。その後に発売された、彼の作品やライブからは想像もできないが、この人はラテンを弾かせるとむちゃ熱いピアノを弾いた。ソロが回ってくると、延々つづけ、スタジオでリハ中など、ピアノがアップライトだったので、合図が出せない。仕方がないので、ベーシストがネックで彼の後頭部をゴツンとやって合図していたという、ウソのような話しもある。

その他のMariachi写真

1980年12月定期演奏会
1981年11月調布祭Music Inn
1982年6月文中にも登場するUnidgeFes
1982年11月調布祭Music Inn