初代バンマスDejitoにとってのConjunto Domesticoの35年

Dejito(Hyde)丹羽自身にとってのConjunto Domesticoの35年を語ります。

結局DejitoにとってConjunto Domesticoとはなんだったか?

で、結局DejitoにとってConjunto Domesticoとはなんだったか?
・存在意義
・ライフワーク
といったものであったかもしれない。
35年続けてみて、いつかは、と言っていたCrcodileにも出ることができたし、Cadena Latina Grande3回、サルデコ出演16回の遠征。
新舞子サルサフェスティバルvol2での集客213を筆頭に、多数来場いただいたライブイベントも多く開催できた。
「東海地区にサルサオルケスタを」と呼びかけた当初の目標は十分に達成できたと言わせてもらっても差し支えない。東海地区という地域性も大きかったと思うが、さして秀でたものを持っていない者にとって、大変果報なことである。
後世に名前が残るようなことができたわけではないが、東海地区のラテン音楽というものに幾何かは貢献できたんだろうかな。
そして、過去の人として何の引っかかりもなく薄れていくだろう。
バンドを引き継いでくれた現メンバには感謝します。あとは存分に自分たちの考える通りに進んでいっていただければ幸い。

1987年11月3日の初ライブ起算で35年。
始まりは、1983年Latina誌6月号のオピニオン欄に掲載いただいた「東海地区にサルサオルケスタを!」の投稿でした。その時に集まったのはミュージシャンは少なく、結果として東海サルサ振興会「レロライ倶楽部」となったわけですが。

最初の大転換点1999年春

1999年までは、言い出しっぺ=リーダというだけでしたが、1999年春に実質音楽的リーダであった初代カンタンテのアルベルト藤下休団後、「さてどうするか?」から、始まりました。
そこまでの経緯から
「自分だけのバンドではない、残された側として、簡単にやめるわけにもいかない」
と認識し、音楽的にはさしたるものも持たないことを自覚している自分が、できるだけ維持しようとしていたものは、次のようなことです。
1)サルサといえる楽曲に取り組む
2)自分たちが楽しめることをする
3)できるだけバンド以外とを両立できるように(無理はしない)
4)できるだけオープンなプロセスで、できるだけ合意のもとに運営する
5)東海地区でのラテン音楽普及に貢献する

できるだけ維持しようとしていたものとしてあげた以下5項も、勿論最初から明確だったわけではなく、だんだん意識するようになってきたものであるし、全然できてない、と見えることもあるでしょう。
1)サルサといえる楽曲に取り組む
2)自分たちが楽しめることをする
3)できるだけバンド以外とを両立できるように(無理はしない)
4)できるだけオープンなプロセスで、できるだけ合意のもとに運営する
5)東海地区でのラテン音楽普及に貢献する
1999年の時点ではっきりあったのは5項めぐらいかな?
カンタンテをイキナリ失った1999年春、一方ですでに実施を決めていた同年夏、Banda-Mi-Tierraをむかえてのライブイベント、これをどう乗り切るか?
出した答えは、暫定カンタンテとしてDejitoが歌うという暴挙だった。

「A La Genteでやったことあるし、6曲ぐらいならなんとか出来るでしょ。
幸いCongaには、なっちゃんがいるし。」

結果、なんとかなったのか?はさておき、
・Banda-Mi-Tierraの白熱の演奏から受けた刺激
・150を超える集客
・OAの自分たちの演奏でも踊ってくれたお客様
・次は何時やるの?と期待していただけている声をいただいたこと
などなど、実に得難い経験をしてしまい、やめられないことになっていくのでした。

1999年はライブ本数こそ新舞子サルサフェスティバル、植田公園夏祭り・Tiger Cafeでの演奏依頼の3本だったものの、サルデコ観戦ツアーを敢行。
サルデコに集う関東のバンドに大いに刺激を受け、「いつかサルデコへ」の思いを抱くに至ったのだけど、折から、サルデコ運営の主催バンドへの負担増から「その後の存続をどうする?」という議論が始まり、「出演バンドが参加費を負担する」方式提案から、早速参加のチャンス?が巡ってきた次第。
2000年は2月大阪からDrisimaを迎えた新春スペシャル(集客152)、Borrachosを招聘した新舞子サルサフェスティバルVol.2(集客213!)、リトルワールドでのリズムワークショップ、映画「Salsa!」公開に合わせてのクレストンホテルでの「Salsa! Summer Night Party」での演奏、東海豪雨直後でありながらサルデコ2000に初参戦、その1週間後にはKokomoにやまもときょうこさんを招いてのライブ、11/2 Son Reinas 11/20 Grupo Cheveleとど平日にプロバンドを相手の得三ライブ2本と8本。この年あまりに活動急拡大となったあおりで家庭との折り合いが一気に大変となったことから、この年の中盤から「バンド活動は原則月に2回まで」という丹羽家ルールが布告され、「3)できるだけバンド以外とを両立できるように(無理はしない)」につながるわけです。

Domesticoが大きく変わった要因は、
a) アルベルト藤下の休団
b) プロバンドを目の当たりにしたこと
c) サルデコとの出会い
だろう。
a)がなかったら、Dejitoはその後もさして向上しないConga+Coroに収まっていて全体の発展はなかったかもしれない。選曲もアルベルト歌の範囲でしかなかったかも。
b)については、一部メンバこそかつてDel SolやDe La Luzを見たことはあっても、それこそリハ段階から間近で見た経験は誰もなく、「ホンモノを見た」という経験。
c) はまさに、名古屋という地方都市の近隣だけで、自分たち以外には似たようなレベルのバンド(かぺルアーノコミュニティ内で活動するラティーノバンドか)ぐらいしか知らない状態でサルデコに行き、そこに集まっているバンドの演奏に「これでもアマチュアなの?」「バンド毎のカラーも違う」と衝撃を受けた。
まだコンテンツが残っている「サルデコ・データベース(最終更新2008年9月4日)によればサルデコ1999(第9回)の出演バンドは
http://www.interq.or.jp/jazz/willie/saldeko/pages/sddb.html
Latin Jaz’ MAX
Grupo El Camino
La Trova
Los Borrachos
La Parranda
そんな猛者が集う中へ、サルデコ2000からDomesticoが混ざってしまう。
残っている記録でも、そのレベルの違いは歴然だった

関東関西のバンドを招聘してのライブ企画をやっていく中でも、レベル差を痛感・また多いに刺激を受けたものでもある。
2000年2月には、以前Domesticoに在籍した山本”東大”君が当時在籍していたDurisimaを招聘しての新春スペシャル、2001年2月にはLa Ballena Incontinente y Los Gordosを東京から招聘してのWinter Special「それでもあなたはスキーに行くの?」。

こんなバンマスでもありなのか?

特に、後にMantequilla Perroを率いることになるGordos音楽監督の横溝氏は本来のバンマスのあるべき姿であろうと実感したものである。
Saldekoで会った方々でも、例えばLatin Jaz’Maxを主宰された中込氏などがそう。出会った当時のBorrachosでは大塚さんとか。
この2000年代前半当時にネットで知り合って2015年ごろにようやく対面でき意気投合できたコムリート小室氏などもそう。そもそも音楽をやる集まりのリーダたるものが音楽的に取り柄がないというのはあっていいケースなのだろうか?と。
そうはいってもバンドは続いているし、ま、基本メンバー様の僕として自分にできることをしていくしかないと、開き直っていたものである。

「バンド活動は基本月2回」のルールもあったが、ともかくDomestico以外のバンド活動はほぼしてこなかった。
繰り返しになるが、音楽的なことでは、これと言って秀でたものを持っているわけではない。
40年ほどもやっているがCongaは我流で上達していない。
Tresは持っているが自在に弾けると言うにはだいぶ遠い。
ギターも危うい。
アレンジができるわけでもない。
並以上と言えそうなのはGuiroぐらいだが、それもほおっておくとテンポアップして自滅しかねない。
メリットといえば
ただただ古くからのサルサを知っている愛好家おぢさん。
そしてPA機材を保管していて大物打楽器を一揃い持っている。
ぐらいのものだが、ともかくも、メンバー様には捨てられずに済んできた。名古屋という地方都市圏であることが幸いしていたことは否めない。関東ならあっさり見捨てられていたに違いない。

バンド創生の頃はアルベルト藤下とDejitoで選曲していたが、2001年ぐらいになると選曲もそのときどきのメンバーが提案するものが中心になり、やがて基本は歌手が選び、時々他のメンバーも提案する形になっていった。
そうやってNYもPRもCubaからベネズエラからコロンビアまでもごった煮の選曲となっていったのだ。
Dejito自身はといえば、極稀な例外を除けばそれらのどれも楽しんでいた。
元々は80年代前半まであたりのちょっとDarkなNYサウンドが好みだが、Timbaも良ければ、NatiもNicheもRay BarretoもAngel CanalesもRubby HaddockもSon14もRumbavanaも良いのだ。

メンバ あるいは各パート奏者

Conga奏者について
2022年に至るまでDomesticoでConga担当を経験したメンバーは少ない。
結成当初、Dejitoも横井も、そして小幡もCongaが一番好きだった。ただ、Timbalは小幡しか経験がなく、DejitoがCoroとともに演奏できるのがCongaだけ、というだけの理由から、横井にBongoを押し付けた形となった。
1999年以降、バンド内での担当がそれまでのConga+Coroから暫定で歌となったが、ほかのConga奏者をまったく受け入れてなかったわけではなかった。2023年現在現メンバーとしては最古の一人となるなっちゃんは、1998年にCongaを始めたばかりでメンバ募集に対して連絡してきて、1998年の名古屋De Latinで一曲演奏してもらっており、1999年からはメインConga奏者である。
2000年代に入ってすぐ、現在はSalsa Swingozaなどで活躍するかせっちがリハに訪れたが、なっちゃんがいたこともあって強くはお誘いせず、かせっちはそののちLos Hermanos Senorに参加となった。
後にBongo参加の今泉君も応募当初の希望はConga担当。
ラテンパーカッションのとっかかりは圧倒的にCongaなんだろうな。
途中、2008年に一時なっちゃんが休団した時期はDejitoがCongaに復帰。そしてまた2008年からマーク近藤がうたいはじめたこともあり、打楽器隊Bチーム編成としてマーク歌唱時にDejitoがConga担当という編成が定着していったのだ。

Timbales奏者について
DomesticoでTimbal担当を経験したメンバーも少ない。
結成当初、Timbalは小幡しか経験がなかったので、彼が仕事多忙で継続できなくなるまでは小幡だった。
2002年遂に小幡が継続できなくなって、とりあえずトラでお願いしたのがKoko Escalante 。今や本場で活動している。
Kokoとは1999年サルデコ観戦ツアー時に知り合った。2002年6月大須サルサフェスティバル時にはトラで乗ってもらったが、その打ち上げ席上でギャラ無しでもいいのでメンバーとして参加を申し出てくれた。
以降2004年ぐらいまで、リトルワールドやらDomingo Salsaborやらできる限りは参加してくれたが、少々連絡が取りづらいことと、スケジュール調整ができず不参加の事も多かった。そんな中2003年になるとマーク近藤君が登場したのである。
当初、古いサルサについて語り出すと止まらないところからウンチク近藤と呼ばせてもらっていたが、この人、実は1993年ぐらいのDomestico冬の日時代に当時おそらく高校生で一度Domesticoのリハに見学に来ていた。その後彼は一旦ドラマーの道に進み、再会時にはフリー系ドラマーとしてはソコソコ名前が通る人になっていたらしいが、やはりラテンに回帰してきたのだろう。
2003年高蔵寺サンマルシェ盆踊りが彼のTimbalero初回のはず。サルデコ2003も近藤君。Koko参加時にはドラムで参加したこともある。
だが、彼もまたその生活時間帯の特殊さからくる連絡の取りにくさとドラマー現場の多忙さから、参加できない場合も間々あった。
そこで小幡欠席勝ちになった頃からDejitoがリハでTimbalを叩くようになり、2002年5月の当時フロントメンバーだったミタムラーノ結婚披露パーティーやら2003年10月蒲郡ラグーナで歌わない時にはTimbalを叩くというスタイルでやってしまっている。
マーク近藤が2007年ぐらいに歌手デビューした当初もDejitoがTimbalとしていたが、その後Bチーム編成ではなっちゃんがTimbalとなっていき、マーク近藤欠席時にも本番ができるようになった。
2022年以降ではリズム隊要員もふえ、また、担当ローテーションも積極的に取り組んでいるので、フォーメーションの幅も広がっている。今後が楽しみである。

Bongo奏者について
Domesticoリズム隊でもっとも苦労したのがBongo。
結成当初は、横井に押し付け、1999年に来なくなるまでは横井。
横井が来なくなった頃に、「エルココでいつもBongoを叩いている少年がいる」という噂から呼込に成功したのがマルガリート山口君だった。もっとも参加直後に手を怪我し、本格化参加は少し後になった。
そのため1999年7月の新舞子サルサフェスではBongoをnomurandoにお願いしている。
その山口君、メキメキ腕を上げ、やがて「Domesticoはヌルい」と卒業してしまう。
そこから今泉君登場までBongocero不在の時期が続くのだ。
その間、マササ企画の足立氏にお願いしたり、小菅さんにお願いしたり、Dejitoが真似事をしたときもあったり、いっそカンパナだけマークがTimbalに付けているだけの時もあった。同様の状態はまた今泉君休団時にも発生した。
Bongocero不在で敢行した2013年6月のライブで、現在は広島にいる岡崎君が名乗りを上げてくれてようやく正Bongoceroが補充できた。
岡崎君広島転勤が決まっていた2016年3月プラスティックファクトリのライブ時にサクマーノが登場。
そのサクマーノが折からのコロナ禍で職業的に継続困難となっていた2021年春、カオリンの紹介で加藤君が参加してくれた。
そして2022年には瞳さんも参加し、またパートもどんどん入れ替わっていく体制になってきて、これまでのような不在のなやみは少し遠いものになりつつあるようだ。

Bajisto(Bass奏者)について
初代Bajoは吉岡という人だった。
もともとJazzギタリストだったということだが、なぜかベースに転向、連絡先はなぜだかガソリンスタンドの電話からの呼び出しだった。ラテンの経験は皆無ながらビートがしっかりしている人で16ビートの解釈でまったく問題なくサルサのベースができていた。リハ中、ベース弾きつつハイハットをウラで踏みながらリズムキープしてくれることもあった。Domestico当初はリズム隊と歌だけのバンドで、彼はホーンセクションの導入に反対していた(下手にホーンが入るとリズムが崩れる、という理由)。
1990年11月を最後に休団、そこからしばらくリハもままならぬDomestico冬の時代に入ったのである。
それでも1994年ごろボチボチホーンセクション加入があり、復活ライブをするべくアルベルト藤下がベースを弾きながら歌った。
1995年2代目Bajistoのノダッチが加入するが、ラテン未経験で相当苦労したのだろうと思う。2000年11月までよく頑張ってくれた。
前後して半田de Latin をきっかけにMaestro nomurandoとの邂逅。
当初、マルガリート山口の手が復調するまでの間のBongoやGuiro Maracasなどで加わってもらっていたが、2000年小幡とやれるという魅力から3代目Bajistoとして加入してくれた。以降2017年末までnomurandoグルーヴの恩恵にあずかり、また種々リズムの指導を受けたものである。
2018年からは、これまた6弦ベースを操るスーパーベーシストであるルート大西が参加してくれたおかげで幸い空白は生まれなかった。
nomurando以降はBass奏者確保にさほど苦労をした印象はないのは幸せなことだろう。

ピアノ奏者について
Conjunto Domesticoと名前を決めるより前、エクトール野口氏のお店で練習と称して集まっていた頃に当時高校生だった江南の呉服屋の娘さんが参加したことがあるが、本格的に初代と呼べるのは水谷善朗である。なぜか当初から「先生」がバンド内での呼称になっていた。
当初打楽器隊の3名とアルベルト藤下以外がいなかったので、積極的にメンバを探していた。ベースについては吉岡が見つかっていたのだろうと記憶するが、せめてピアノ奏者がいないと形にならない。メンバー募集をかけてもなかなか応募者がいないし初心者では無理だろう。ということで、ジャムセッションに顔を出し、声をかける活動を始めた。それほどあちこちを回った記憶がないのだが、ある時当時今池にあったYuccaを初めて訪ね、そこで常駐ピアニストだった水谷先生に声をかけたところ、どこの馬の骨かもわからん若造が聞いたこともないアマチュアサルサバンドに誘っている話に「いいよ」と言っていただいた。
さすがにプロ。ラテン特有のフレーズには苦労されていたが、初期のアレンジにも尽力いただいたし、ソロはリリカルで素晴らしかった。また曲間をフレーズで埋めてくれたり、吉岡在籍時には二人で何やら演奏を始めてしまい、あとで打楽器陣がついていき、予定になかった一曲が差し込まれることもあった。
1998年から水谷先生の弟子であったマユミが参加。のちに水谷いらずとなり、マユミだけで演奏も敢行できるようになった。
マユミは当初からすると著しい進歩でラテンピアノが弾けるようになっていたが、ほかのバンド経験はなくセッション的なことはできていなかった。
そのマユミが産休となったおり、2005年ごろからお互いを知る間となったキューバから帰国の現ピアノ奏者である志穂に声をかけ、参加してもらう。志穂の参加はDomesticoの大きな変化の種であったことは間違いない。
志穂とは2005年の豊橋スロータウン映画祭への出演者同士(出演日が違った)、夏に可児であったKachimba1551のライブ、11月にLas Chicas Lindimasを招聘しての得三ライブなどで知り合ってはいた。
また、その後に一時期茜も参加、ピアノ奏者二人体制だったこともあった。

ここいらでメンバー様についての考え方を。
基本は来る者拒まず、去る者追わず。
どうしても足りないパートがある場合、手をつくして募集したりお願いしたり。そしていったんメンバー様として参加していただければ、去る場合もこちらの気持ちは「休団」。そして多くの場合は転勤でやむなく休団。その他、本職多忙、産休育休、Domesticoがぬるい、中にはなにか遠慮された方もあった。
とはいえ去っていただいた方もないわけではない。
2代目Bajoノダッチは半ば休団に追い込んだ体がある。
2004年ぐらいに一時参加していただいたTb某S氏は、演奏のひどさにお願いして去っていただいた。
それ以降はこちらからさよならしたことはないが、状況から休団に追い込まれた形の方があったことがあり、どうにも落ち着かなかった。

Guiro専の柴田氏について
2011年ごろから2012年にかけて参加されたGuiro奏者。
通常Guiroは「Gui」と粘るところで上向きに動かすのだが、この人は下向きに動かす独特な奏法。そのためにテンポの速い曲は困難が伴ったが、その独特な奏法でも実にいい粘り気あるグルーブをお持ちだった。2011年唯一のライブ活動であるサルデコ2011と2011年GWに真野倫SomoroとAquiestanを招いてのキューバンスペシャル「Trianglo Salsa Cubano」に参加いただいた。
ただ、連絡が取りづらかったことと、バンド経験には乏しかったこともあってか気後れされて、サルデコ2012にもお誘いしたがそのあたりから参加されなくなってしまった。もっとうまくフォローできたら続けられていたのだろうか。。。

ホーンセクション
Domesticoという名前を決めた頃はホーンセクションは皆無だった。当時のBajo吉岡がホーンセクション導入に反対していたぐらいである。

1987年11月初回のライブでは、KCJOの長谷川さん他1名様にお願いしたトラのTp2本で敢行。2回目の1987年12月茶店人形時にはその直前に参加した松野氏と長谷川氏のTp2本のソノーラ編成は変わらず。
3回目となった1988年2月の茶店人形2回目はホーンセクションなし。
1989年3月Scratchでは、Tp1、A-Sax 1、T-Sax 1のお姉ちゃんホーンズ。そこからまたしばらくホーンレスのままやがて冬の時代へ突入する。

1994年になり、Jazzライフに出していたメンバー募集に対して、ぼちぼちホーンセクションの応募があり、1994年には、Tp 2(石井さんと東大君)、Tb 1(パンチ)、A-Sax-1、T-Sax 1の布陣でScratchライブを敢行している。
1995年はTp 2(東大君とセミちゃん)、Tb1~2(パンチとiguchito
1995年にパンチが関西へ異動。

1998年初頭に東大君が大阪へ旅立ったが、ここでチェピート木内が登場する。
セミちゃん参加が継続できなくなっている折だったか、ビート辻田が登場。2002年ぐらいまでは、Tpはチェピート木内+辻田の2本、Tbにiguchitoを基本とし、時に山田君をTbでお願いするという基本パターンがあった。2000年夏ごろ一時Tp海保さんに参加いただいたことがある。
2003年には、当時消防音楽隊にいらっしゃったボンベリート丹羽氏が少しの期間だが参加された。
また、当初Coro参加だった朱里が、2003年あたりから産休までT-Saxも担当するようになった。
Tbで問題の某S氏が参加されたのは2004年から2005年前半。

そして2005年から、Tb真鍋氏、A-sax森崎氏、Fl徳島氏が参加。
真鍋氏は2010年秋転勤で休団(なお転勤直後だったサルデコ2010では、ピアノ担当だった茜がTbも吹けるということから、一部曲でTbも担当してもらった)。森崎氏は2014年で業務多忙から休団。
前後するが、Tp辻田氏が後継として岩田氏を連れてきて参加。岩田氏は2012年サルデコを最後に休団。また2011年Iguchito北陸転勤後に空席だったTbには小林かよさん、若林香織さんの二人が2013年前半まで参加。
2013年に岩田氏後継として参加いただいたTp新玉氏は2016年覚王山春祭まで。

2014年初頭のアルマジロライブに向けてTb確保の必要からお願いしたのが太田オジキート等氏。
そしてそのアルマジロライブ以降、Tp Juanito竹岡氏の参加から大きく変わっていくことになるのだ。
2014年11月時点までに
Tp 酒井氏(2017年夏から休団)
B-Tbケンジート(2017年秋から休団)
A-saxのちB-Saxユーキ松下
B-saxそしてA-Saxの摩耶(2015年夏産休で休団)
Tbマキータ(2021年秋に転勤で休団)
が参加、最大で8管の布陣。
2018年にはA-Sax川越氏、Tbに野田(由衣)ちゃんが加わった。
2019年TP にナガタエリ(2020年転職転居に伴い休団)
2022年以降は私Dejitoは正直把握していないが、強力なTp、Tb、エレガントなFlの新規加入が相次いでいる。

歌手について。

新旧列挙してみる。不足があったら申し訳ない。

アルベルト藤下
初代であり、Conjunto Domesticoなるバンド名命名者。1999年春までの音楽監督。時にKb、時にBajoも弾きつつ歌ったこともある。冬の時代以降にキャッチーな曲、メジャー曲の選曲も推進。また、メレンゲ曲として「Can’t Take My Eyes Off You」選定と基礎となるアレンジを提供。

アキコ(Aquiko)
1987年~1989年3月まで参加。
参加当初は女子高校生だった。
Falsedad, Tu No Sabes Amar, Cantando Vivire (Cm)を歌唱。

光原
1990年11月ライブまで参加している。
Cantanteとして実際にライブで担当したことはなく、FOした。
確かDesnudate Mujerを担当してもらおうとしていたはずで、彼にFrankie Ruizの2ndアルバム「Voy Pa’ Encima!」のCDを貸していたのだが、返却されることがないままFOし連絡が取れなくなった。

Hyde(Dejito)
1999年春、アルベルト藤下の休団を受け急遽暫定カンタンテに。
その後、他歌手の参加に伴い徐々に担当曲削減。

淳子
1995年から2003年まで参加。当初Coroだけだったが、2000年にかねてから仕込んでいたメレンゲアレンジの「Can’t Take My Eyes Off You」で英子とともにメイン歌唱デビュー。また、Dejitoフロント時代にMelao De Cañaのヒラウタ上パートを担当したこともある。

英子
淳子とともにCoroおよび「Can’t Take My Eyes Off You」でメイン歌唱。健康上の理由で2000年中に休団。

ボンベリート岡
ほぼ2000年のみ参加。
Desunudate Mujerを担当。

Chris Pinc
2000年7月新舞子サルサフェスティバルから2001年2月のWinterSpecialまで参加。その後ボリビアへ旅立った米国籍人。

ミタムラーノ
2000年ごろから付き合いのはじまったササマ企画またはマササ企画なるラテンバンドの歌手だったが2001年から2002年前半に参加。頼りなさげな声が特徴。Margarita, Celryを歌唱。

Toni Dufy
2002年春から6月に在籍したペルアーノ。
ミタムラーノ披露パーティと大須サルサフェスティバルに参加。
さすがにプロフェッショナルな艶っぽい歌だったが、プロフェッショナルであるが故、ノーギャラのDomestico参加は継続できず。

José (rolenzo Renteria Takahashi)
2003年から参加のペルアーノ兄弟の兄貴。
良い声を持っていたが、ピッチは少し怪しくソネオはあまりできなかった。当初、Ven ven、Amor Entre Tres他Dejito持曲を移行しつつ、自身持曲としてもLos Zapatos(のちに弟Juanに移行)、Miraque Bonita, Una Mulata en la Habana, Saliditas Contigoなどを歌唱。2008年6月の58月が最後か。連絡が取りづらく、また約束の時間に現れないことが比較的頻発した。

Juan Renteria
Joséの弟。2004年ごろからの参加。Los ZapatosをJosé、ConfecionをDejitoから移行。また、Juan自身の希望により採用となったBomba Carambomba (Angel Canalres版)、La Perdiste、El Aguila、Por Telefono No!などが白眉か。ソネオができるが、ピッチが怪しく、ハモリは苦手。Saldeko2009が最後らしい。2010年7月得三ライブのアンコールにゲスト参加している。

知念カルロ
Juanが誘ってきたペルアーノの若者(当時)。2006年瀬戸菱野団地から参加。太い体から出すちょっと頼りない高音がいい味だった。La Perdisteを歌唱。Saldeko2007まで。

ERIKO
2009年7月瀬戸菱野団地での演奏から参加。当初こそSukiyaki(やまこときょうこ版)でのゲスト扱いだったが、Domestico以外のラテン系音楽活動、自身のバンドも含め積極的な活動と研鑽の結果、がっつりソネオをこなし、脱ペルアーノ化とともにDomesticoのメインカンタンテに。
ピアノ志穂とともにCubaレコーディングしたCDを出している。

マーク近藤
Timbaleroだが、ある時、リハで歌わせてみるとあのすごいハイトーンだったことから、歌も担当となった。当初Cantando Vivireから始めたが、Quitate De La Via Perico、Todo Tiene Su Final、La Rueda、Un Puesto Vacante、Cantare Con Una Orquesta、Timbalero、Ladron de Tu Amor、Indestructibleなどなど、今やERIKOと並ぶ看板歌手。

Yuqui-lah
2013年にERIKO産休時にお願いし、岡崎シビックセンター、6月Sunny sideでのCheveleとのジョイントに参加。2014年1月ERIKO復帰アルマジロライブ、そして2014年Vivela@Quatroにも参加いただいた。Mango Mangue、El Curato de Tula、Sukiyaki2.1など。

MIMI
2017年~2018年11月まで在籍。
ミアモーレ(Meu Amor é:Del Solがバックの歌姫ダブルディケイド版)歌唱でデビュー。ほかにLa Vida Es Un Carnaval歌唱。
残念ながら休団となったが、Lo Mio Es Cantarは歌ってもらいたかった。

ナカーニョ
Especials歌手。低音側が売り。2017年から2020年2月小瀬澤祭まで在籍。Timbalero、女神、El Negro Bembon、El Cantante、Moreno Soyを歌唱。Moreno Soyはオリジナルのポンセーニャ版ではなくDeigo el Cigala版。El Cantante、女神などは独特の色香を漂わせていた。

オセ・ロドリゲス
かのLos Borrachosの歌手だが、2017年~2020年に名古屋勤務となった縁で参加いただいた。
MIMIとDuoのCachita、マークとDuoのNo Vale la Pena。そしてRiverside Hotelの艶っぽさ、在籍時には、そのショートバージョンをバンドテーマにもしたSalsa!(映画主題歌)。そして小瀬澤祭での数々の名唱も記憶に新しい。まさに伝説のカンタンテである。

アレンジャーについて

当初はとにかく各自耳コピを基本としていたのでアレンジもヘッタクレも無かったが、一部Pablo PuebloなどDomesticoと名前を決める前に来ていたTb奏者が譜面を残していた。
Tpトラをお願いした長谷川さんにTp2本の譜面もお願いしていた模様。譜面が残っている。
89年3月のライブ時は誰がホーンの譜面を用意したのだろう?
Cantando Vivireの間奏がオリジナル構成では水谷先生がどうしても躓くためCoroコード進行のままピアノソロにしていまい、その最後に8小節だけDejito作成のフレーズをA-Saxで吹いてもらった。
90年代中盤以降、水谷先生や東大君も譜面を作ってくれていたのだろうか?94年になるとそこそこホーンが参加しているのだが。
1999年以降、チェピート木内がアレンジに目覚め、2006年頃まではあらかたチェピートのアレンジである。
その後、ピアニストが譜面を用意してくれる体制となり、志穂と茜がそれぞれ用意してくれた時期を経て、志穂が基本アレンジ担当となり、大編成に合わせた数々のオリジナルアレンジが投入されていった。
近年、野田ちゃんアレンジも投入されつつある。

PA、機材について

バンマスたるもの、最低限のPA関連知識が必要と思っている。
これはある事件で痛感した。
1996年9月の大垣での演奏依頼時だった。
事前に現場の下見をすることもなく、どの程度のPAが必要なのかもあいまいなまま当日臨んでしまったうえ、PAの方との窓口も複数の状態で意思疎通もうまくとれず、結果として要望が二転三転することにもなり、現場のPAの方には大変なご苦労とご迷惑をおかけした。
もちろんお抱えオペレータがいるのが理想だが、そうそう望めるものではない。PAをお願いする以上は、バンマスが責任をもってPAさんとすり合わせを行っておかねばならない。
もともと自宅スタジオで制作もしたい(かなわなかったが)、とtascamの24chミキサーやらも購入していたし、実はPA用のパワードスピーカもフリーマーケットで仕入れていたりしていたこともあり、ゆっくりとではあるが、PAについての勘所を折を見て習得していったものである。
2007年6月と8月の瀬戸菱野団地では、それまでに持っていた自前PA機材で演奏を敢行。また、2015年ごろからは、貯金ができてきたこともあって自前でPAが必要な演奏依頼を受けたりもできるように、少しづつ機材も買い揃えていった。
2016年3月のPlastic Factoryでは対バンのRisaGozaさんの機材を大量投入いただき、またRisaGozaメンバのよく教育された!ステージセッティングや撤収の様子に感銘を受けた。その刺激をもとに2017年2月のマハラジャライブなども自前機材で敢行した(トラブル続出だったが)。

ギャラの考え方

ほかのバンド(特にプロ)のギャラが不当に買いたたかれるようなことがあっては問題なので、基本それなりの金額を提示させてていただいてきた。ただ、この提示金額は、いつも悩ましかった。高く提示して立ち消えになった件はそこそこある。
安売りする気はもちろんない。
依頼元の目的が(物販ありイベントで出店者から代金をとるなど含め)商売なら、いただくが、愛好家の方などが無償イベントでされる場合や、その他バンド側にメリットがある場合には、その状況次第では無償でも演奏させていただくことも多々あった。

ライブ集客におけるチケットノルマ

自主ライブでは、集客も自分たち。
ただ、4ピースのロックバンドならいざ知らず、15名ほどにもなる大所帯バンド、客層となるコミュニティには伝手がないメンバー様もいらっしゃるなど、メンバ毎にバンド参加の状況も違ってきている。
集客に貢献できなくとも、演奏ではそれぞれのパートで貢献していただければOKと考えていたこともあり、メンバ均等なノルマ制は取りたくなかった(このあたりは、大所帯であってもノルマを課されるバンド様は多かろう)。
ただ、やはり集客への貢献度合いに大差がついてしまい、貢献度の高いメンバーからは不満があがるし、集客に直接貢献していないメンバーが肩身を狭く感じられる状況が生まれてしまった。
そんな中「チケット販売に対するキャッシュバックを」との提案があった。販売数に応じてキャッシュバックする制度をとれば、集客への貢献をかなり切り離すことができる、と渡りに船で、採用したものである。