東海サルサ歴史館第7回は、名古屋のサルサシーンを語る上で欠かすことの出 来ないペルアーノ達に焦点を当ててみる。といっても、さほど詳しいことを知っているわけではないので、ご容赦願いたい。思い違い、間違いなどがあった らどんどん指摘して欲しい。速やかに訂正します。
☆出稼ぎラティーノ達とエルサ畠田
90年代初頭、まだまだバブリーな日本を目指して、大量の日系ラティーノが出稼ぎにやってきていた。特に、ブラジルとペルーからの出稼ぎ者は多く、今でも在日ラティーノの大多数を占める。東海地区でも、やはりペルアーノとブラジリアーノは多く、すでに彼らのコミュニティが築かれていた。ラティーノ、 特にペルアーノやコロンビアーノのコミュニティでは、盛んにサルサパーティが開かれているが、それらは、お国の例にならって、ほとんどが夜中のスタートであった。
そんな中1991年にペルーから一人のダンサーが来日する。日系3世のエルサ畠田である。
エルサは来日翌年の92年、Orquesta De La Luz主催のダンスコンテストで2位だか3位だかの入賞を果たす。来日から岐阜に在住だったエルサの活動は、前後してわがレロライ倶楽部会長のエクトール野口氏などの岐阜のラテン系若旦那衆の目にとまり、その助けもあって翌年93年には、岐阜市内の丸昌スポーツ2Fにててダンススク一ルを開講。ここから東海地区のSalsaダンスの歴史が始まったといっても過言ではない。その後東海地区を中心に各地にダンススクー ルを開講。のちに来日したキューバ人エルメスと並んで東海地区のサルサダンスの双璧をなす一大勢力となっている。
☆Somos Latinos
ラティーノコミュニティで開かれるパーティに欠かせないのがラティーノのサ ルサバンドである。その核となっていくのが、Somos Latinosだった。
Somosは 当初はギターがいたりしたラテンロック風のサウンドで、大須祭りに出演していたりしたこともあったが、すぐにフル編成のサルサバンドとして成り立って行く。メンバの大半はペルアーノだったが、一部日本人もいた。他にもあったペルアーノバンドを吸収しつつ、尾張地方を中心としたペルアーノコミュニティのパーティを中心に活動していた(らしい)。
1995年当時は、カンタンテと して、現Salsa SwingozaのLuckyさんことPablo Castilloが加入していた。当時からLuckyさんは関東在住であったが、Somosのライブに通っていたとのことで ある。95年12月にエルサの伝でいただいたConj.Domesticoのクリスマス営業の折りに乱入し、Todos Vuelvenを唄った。その後、Somosは活動の拠点を関東に移したと聞いているが、そのまま存続しているのかどうかは、定かではない。 東海地区にいるメンバで、昨年ぐらいから、CongaのCocoさんを中心に、また ペルアーノバンドが結成され、活動を開始している。
(レロライ~名古屋サルサ通信~ 0007 2000/11/07から)