初代バンマスDejitoが語るConjunto Domesticoの来し方(~2022)

概要

Conjunto Domesticoを始めた”Dejito”(または”Hyde”)丹羽は2022年に東海地区を離れ、バンドの運営も残ったメンバに託すことになりました。それに伴い、従来「About Us」につづっていたバンドの経緯を別ベージに移動し、2022年までの記録追記をもって完結させ、2022年以降の経過と分離することといたします。

萌芽

1978年秋というにはまだ暑い9月、某名古屋西高校の文化祭内のコンサート「ロックフォーク祭(だったけ?)」予選にHyde丹羽率いるサンタナコピーバンド”Mariachi”が出場、見事に予選落ち(一応次点らしい)。演奏曲目は「哀愁のヨーロッパ」。当時、Hyde=Guitar、横井=Conga。横井がなぜ加わることになったかは、今となっては誰も知らないが、これが、タダの同級生から道を踏み外す第一歩であったことには間違いない。

孵化前夜

1980年東京調布の某大学軽音楽部-それまでサンタナコピーしか考えていなかったHyde丹羽。ここでもバンド名”Mariachi”を使い、念願のサンタナコピーバンドを結成。だが、当時、まともなパーカッション奏者が大学の軽音楽部にいるはずもなく、Hyde丹羽みずからパーカッションクリニックを(一回だけただで)受講し、後輩をだまして教え込む。この時のクリニックの講師は、東京キューバンボーイズの小野寺猛先生であった。
思えばこのときに萌芽があったのだが、1981年、なぜかラテンフュージョンに目覚め、無謀にもホーンセクションを加え、松岡直也&WesingとWillie Boboをレパートリに。松岡バンドから、Orquesta Del Solまでの道のりは近いもの。「Rainbow Love」にたどり着くのは時間の問題であった。この年から、Hyde丹羽はGuitarとCongaの両方を担当。翌年には、ついにGuitarが弾けない体になってしまう。1982年には「中南米音楽」誌上にGuitarを抱いたままtimbalをたたく学生サルセーロとして登場。だが、バンドとしては、女性ボーカルを入れたラテンっぽいポップスバンドへと変貌していく。

黎明

1983年6月、Hyde丹羽が出したラティーナの「東海地区にもサルサオルケスタを」という募集記事に呼応して、2人から連絡が入る。ただし、ミュージシャンはわずかにマエストロ小栗師匠ただ一人。もう一人は、なぞのひげ男=レロライ倶楽部会長となるエクトール野口氏。エクトル氏、小栗氏ともに岐阜在住のため、岐阜は長良橋(だったか金華橋だったか?)の袂で会う。この時まだ車を持っていなかったHydeは、前年秋の某TV局の面接で再会(ちなみに二人とも落ちました^^;)した横井に車を出させて同行。この4人に当時岐阜は柳ケ瀬でサルサバー?「ウキウキ」をやっていた本職グラフィックデザイナの西脇氏を加えたメンバで翌月東海サルサ振興会「レロライ倶楽部」を旗揚げする。

レロライ倶楽部としては、月一回の例会のほか会報「Lelolai」の発行、Our Latin Thingやサルサビデオの上映会、 大阪のサルサバンド「Salsa El Primero」を呼んでのLiveの企画など、振興会として活発に活動。でも2年ぐらいで息切れする。
一方、例会の中でパーカッションセッションとしてスタートしたバンド構想は、Vo&KBのアルベルトの加入により、徐々にバンドになっていく。

1984年11月、マエストロ小栗の勤務先であった岐阜刑務所で初Live。このときはリズム隊のみでバンド名もなく、演奏もEstrellas De Fania以外に何かできたか、さっぱり記憶がない。
だが、この後マエストロ小栗の転勤などがあり、バンドとしては足踏み状態に。 本格的な活動は、現Timbalero小幡と前任Bajoの吉岡の参加を待たなければならなかった。この間も当時女子高校生のPianoや素性がよくわからないBajo「あらき」ほか何人かのメンバが現れては去っていった。

夜明け

1985年ごろ、メンバ探しのため、ライブハウスのジャムセッションのぞきをしていたHydeが立ち寄った当時今池のライブハウスYuccaで現Pinanist水谷ヨシローに出会う。 水谷ヨシローが、なぜHydeの申し出を受けたかは、定かではないが、このとき、ようやくConjunto Domesticoの原型が出来上がった。

1987年にCantaアキコを加え、11月、アキコの通う自由学院短大学園祭で初ライブ(ホーンセクションは春日井カントリジャズオーケストラからのトラでTp×2)。12月、翌年2月と名古屋・橘の茶店人形にてLiveを行う。

1988年には、パーマネントメンバとして、お姉ちゃんホーン隊(Tp,A-sax,T-sax)が参加。1989年3月には、Bongo横井の伝で小牧SCRATCHでLiveを敢行する。

低迷

しかし、その後、お姉ちゃんホーン隊、Cantaのアキコと相次いで脱退。さらには、最強のBajoだった吉岡の脱退が決定打となって、Conjunto Domestico冬の時代が到来する。
そんな中、1989年11月には、パラダイスカフェ(惜しくも99年2月で閉店となる)でHyde丹羽の結婚披露パーティを開催。このときは、東京から、やはり89年1月に何の因果か当時鎌倉へ転勤中のHyde丹羽が声を掛けて結成されたOrq. A La Genteを呼び、Conjunto Domesticoも一部ホーンセクションを借りて演奏。
1990年には、バンドとしては11月に一回、その他水谷ヨシローの関連で今池祭りなどでバックバンドとして各種ライブに参加するも、このあたりで吉岡が脱退する。
この冬の時代は、1994年にあたりに東大君/パンチート、1995年に現Bajo”のだっち”を迎えるまでつづいた。

復活の日

正直、冬の時代をどう乗り切ってきたか、実は良く覚えていない。 1990年ごろからBajo吉岡が練習に参加しなくなった。
もともと、ホーンセクションの加入問題では吉岡とHydeは意見が対立していた。 「リズムセクションだけでも、怪しくて維持するのが精一杯なところへ、ホーンセクションなんかいれたらぐちゃぐちゃになってしまう」というのが吉岡の主張。
ただし、その対立問題とは関係無く、彼の興味が4beatへと移っていったり、私生活上の問題があったりして、継続できなくなった。

吉岡脱退後、しばらく、練習も滞りがちであった。メンバ募集もままならず、2ヶ月以上も練習が行われない時もあった。また、この間に練習場所に使用していた今池Yuccaが閉店。之をきっかけに水谷ヨシローの貪欲な仕事振りがはじまり、ますます、スケジュール調整が困難になった。
それでも、思い出したように出していたJazzLife誌のメンバ募集によって、1993年~94年春にかけて、Tp、Tb、Saxなどホーンセクションが加入。1994年夏、小牧スクラッチにて、実にバンドとしては4年ぶりのLiveを行う。ただ、Bajoは空席のままで、覚悟を決めたアルベルトは、猛特訓の上?Bajoを弾きながら歌うという暴挙にでた。 そして、1995年春、Bajoのだっちの加入、また、転勤となったTpイシイの後任として、東大君がひっぱって来たセミちゃんも加わり、1994年8月から3回目となるスクラッチでのライブを敢行。さらに、わがレロライ倶楽部会長エクトール野口氏の尽力により、1995年秋の岐阜歴史博物館デモ演奏依頼をうけた。この、秋のデモ演奏に向けて、Coroの英子/淳子が加入。同年末には、クリスマスパーティのお仕事も舞い込み、この年、完全復活を遂げたのである。

年の後半にしか活動できない?Conjunto Domestico

復活を果たした95年の翌年、しかし、相変わらず活動は、低調である。
恒例の新年会のあと、96年は、事実上しばらくお休みになってしまった(練習はやっていたのだが、集まりが悪かった)。
96年の活動は、大垣のユネスコ協会のチャリティコンサート出演要請から始まった。このイベントでは、残念なことに音響面で不満足なステージとなった。
自前のPA屋でもよいと言われながら、Conjunto Domestico側の勝手な期待で、主催者側紹介のPA担当を選択したのだが、事前に話をしていればバンドのPAには経験のない方たちであることがわかったものを、必要な事前確認・打ち合せ等を怠ったため、それを察知することができず、モニタ、ハウリングなどで、残念ながら不満足なものになってしまった。
一部メンバがその不満を漏らしたことが主催者に伝わったこと、その上に事前に連絡しておいたセッティングを当日になって変更するなどConjunto Domestico側のワガママも重なって、結果として主催者側にも後味の悪いものとなってしまった。このイベントに際してはConjunto Domestico側の責任者が不明確であったことが主原因であり、バンド内の責任所在の明確化が求められた事件である。
96年は、また、Los Hermanos Senorとの出会いの年であった。95年末に妹尾兄弟やのちのセノールのクールなBajoルイス君などから、メンバ募集を見ての連絡があり、練習に遊びにきたり、横山達治大先生のパーカッションクリニックに一緒に参加したり、といった交流を重ね、また、かねてよりの懸案であった、サルサ大好きマスタのいるClubMagoとのタイアップイベント企画もあり、クリスマスイブイブ(ヨウするに天皇誕生日)にライブパーティが実現。これが翌97年からの「なごやdeラテン」の基礎となった。
「なんでそこまで、やるの」というくらいがむしゃらにLiveをこなしていくSenorとは対照的に、わがConjunto Domesticoは1997年も低調なスタートで、結局、この年は、終わってみれば、新年会以外は「なごやdeラテン」と「半田deラテン」しかライブをやってない年である。
なお、新年会は、この年から、東大君・セミちゃん所属のビッグバンド「セブンスハード」のドラマーが経営する名駅のスペイン風居酒屋「Bar Espan~a」に会場を移した。
1998年は東大君が、セノール・セブンスハードのT-saxの女性と結婚するというめでたいこと、また、4月から歯医者になるための学校に通うべく、大阪に行ってしまうという、またまた、バンド存続の危機がやってきた。
3月にクダンの披露パーティで演奏。そして、4月からの静かな日々。
幸いバンドは崩壊せず、「サルサde Dancin’ in 甲府」で妹尾兄がボラーチョスのLiveを見たのがきっかけ。その4月から、ボラーチョスのチェピート木内が、実は名古屋に転勤していたということで、話があり、セノールは間に合っているということで、兄からConjunto Domesticoに紹介。カクして東大君の穴を見事に埋めるやっぱりでかい音のTpが加入となったわけである。 98年のライブもまた「なごや」「半田」だけとはなったが、師匠野村氏の人脈と尽力で、この年の「なごや」は、「得三」という素晴らしいハコでのライブとなった。 また、「半田」は半田市の国際交流イベントという形となり、施設の使用がタダになった(その代わり、入場料もないが)。

99年、本格始動?!夏の陣

さて、99年は新年会に前後して産休ラッシュである。年明け早々に無事ご出産のBongo横井、Tb井口の両名はしばらく育児休団と相成った。一方で、かなり困ったことではあるが、創立以来のメンバで、Conjunto Domesticoにとっては音楽監督とも言えるCantaアルベルトが、家庭の事情や仕事の繁忙さなどの理由で、この4月をもって、無期限の休団となってしまった。またまたバンド存続の大ピンチ到来である。
しかしながら、また、この4月に入り、新たにBongoフリータ山口の加入や、98年後半からのなっちゃんの本格起用を前提に、Hyde丹羽が暫定Cantaに就任して、なんとか乗りきることとなった。今年こそは夏にイベントやりたいね、と、いっていたら、ひょうたんからなんとやらで、いきなり夏イベントが実現してしまった。 7月3日新舞子サルサフェスティバルである。東京から、Banda-Mi-Tierraを迎えてのスペシャルイベントの模様詳細は別掲をご覧あれ。 この夏は、新舞子サルサフェスの後、名古屋は植田の夏祭り、翌日にはリトルワールドにてリズムワークショップ講師などいつになく、盛りだくさんの夏となった。 が、その一方で新舞子の直前には、新規加入予定の新カンタンテが盲腸炎で入院、植田夏祭りの前には、師匠野村氏が結石で入院と故障者が続出した。
夏がすぎ、恒例のバーベキューの季節となったが、今年のバーベキューはまた、スペシャルだった。かねてより計画のサルデコ(サルサde Dancin’ in 甲府)ツアーでバーベキューを兼ねてしまおうという趣向。サルデコツアーもまた、実りの多いものだった。あまりといえばあまりにレベルの違う各出演バンドの演奏を目の当たりにし、それでも、やっぱり「来年はサルデコへ!」と決意を新たにした?ものである(甲府の皆様、その節はお邪魔いたしました)。

1999年後半、実は準備開始の遅れも手伝って、2年続いた恒例の秋冬イベントができなくなった。後半は12月にキューバ人インストラクタ、エルメス主催のX’masパーティでの営業のみであったが、これをそつ無くこなし?1999年の活動は終了した。締めて見れば99年も結局、新舞子、植田、エルメスと3回のライブにとどまった。
そして、2000年新年。いつものお客をよぶ新年会ではなく、チェピート宅にてなべを囲むという新しい趣向。ここで、サルデコのビデオなどを見ながら、サルサ談義に花が咲いた(こういうのもいいね)。

Salsa Night 2000

さて、2000年のライブはNew Milleniumにちなんで、「Salsa Night 2000」と題してシリーズ化した。
2月5日には、かの東大君在籍(パンチートも在籍していた)大阪Durisimaを呼んでの得三Live「新春スペシャル」。これまた、150人規模の動員を記録し、大盛況、また非常に楽しいライブであった。サルサダンスファンの皆様が居る限り、イベント的にはこれからも成功が期待できる。
ただし、また課題をたくさんつきつけられたライブでもあった。

夏はまた、恒例になるかもしれない新舞子がまたまた大成功、リトルワールドでのリズムワークショップ、クレストンの営業、やまきょうツアー、そして、初遠征「サルデコ10周年」殴り込みなどなど。サルデコは直前の水害にもかかわらず、遠征を敢行。それが人としてよかったのかどうか疑問は残るが、マエストロ末永さんとの共演など得がたい経験をした。また、おそらくサルデコのメレンゲ初演を果たした。
惜しくも9月のやまきょうライブをもって、ボンベリート岡がバンドを去ることになったが、この間の経験でメンバは一皮向けつつある。11月には、Son Reinasの2度めの来名Liveイベント、そしてやっと決まったGrupo Chevereのキューバンスペシャル、といずれも平日ライブを2本もやってしまった。おかげで集客の難しさも思い知った(はじめて赤字)。まだ、わがConjunto Domesticoの固定ファンがつくところまでにはとっても至っていない。おごるべからず。 思えば新舞子までの集客が異常なのであって、平日なのに50人も来てくださるお客がいるというのはありがたいこと。肝に銘じて精進すべし。
また、リハーサルはおろかサウンドチェックもなしとはやっぱりなめてる。ちゃんとチェックしてバランスを取らなきゃだめですね。20世紀最後のライブとしては悔いが残った。
また、この11月ライブをもってノダッチがバンドを去ることとなった。95年以来経験のない、また、資料も少ないラテンベースに苦労しつつ、黙々とバンドの屋台骨を支えてくれたノダッチに改めて感謝。
また、夏からの参加で今までにないパワーでホーンセクションを引っ張っていただいた海保さんも、もともと日曜参加が困難だったこともあり、正式参加メンバから退かれた。
2000年は終わってみれば全部で8本のステージとなった。今までは多くても年3本だったから倍以上である。来年もこんなペースでいけるとはとても考えられない。でもいろいろなミュージシャンと共演できて吸収するものも多かった。Durisima, Los Borrachos, La Trova, Latin Jaz’ Max, マエストロ末永, やまきょうバンド, Son Reinas, Grupo Chevere。今後それがどのように活かされてくるのだろうか。

21世紀型Domestico!?

2月に東京からLos Gordosを迎えてのWinter Specialで21世紀がスタートした。
土曜日開催の効果もあって、久しぶりの100名超の動員。Gordosのすばらしい演奏もよい刺激に。風来坊での打ち上げも多いに盛りあがった。他の地域のバンドを呼んでのライブは、この、ウチアゲでの交流も大きな楽しみなのである。
いろいろ営業話はいただくのだが、なかなか実現できず、申し訳けない状態が続くなか、4月末にはCuban Salsa Dance FestivalでのAfrocubanosとの共演も実現した。このステージでは、コロ陣が軒並み参加できないことから、チェピートのコロデビューでもあった。
残念なことに、ノダッチともども復活以来のドメスティコのフロントを楽しいものにしてくれていた英子が、この営業をもって休団となった。
一方で、2000年末からぼちぼち進めていた選曲委員会も3月で大方の方向性が出た。21世紀型ドメスティコは、ちょっとキューバより、デスカルガがちゃんとできるバンド、参加型ステージが展開できるだけの力をつける、という目標が採択された。

さて21世紀型ドメスティコ、夏までは一切の営業話をお断りし、新ネタの仕込みに励み。7月の新舞子サルサフェスティバルで新曲2曲を披露。また、マササ企画から直前での参加となった新カンタンテ、ミタムラーノもカンタにコロにMCにと外しまくった。
恒例となりつつあるリトルワールドのリズムワークショップも2001年は拡大バージョンでお届け。炎天下の三ステージはしんどかった。
8月は珍しく自分たちのステージは無かったが、チェベレを迎えてのライブイベントを裏方に徹して完遂。
9月には、96年にもお仕事をいただいた大垣ユネスコ様からの再度の出演依頼。そして9月末には、マササ企画の面々とともにサルデコ遠征。
振り返れば2001年より本数は少ないものの内容は濃かった1年であった。また、三河方面のラテンコネクションも一段と強くなった年でもある。サルデコ以降、ひとまず年内すべてのお話しをお断りし、さらに磨きをかけるべく充電することとなった。

試練の2002年

2002年前半から中盤は試練の連続だった。
2002年頭にはいよいよワンマンライブか?とも思っていたが、ひとまず2001年後半から さらに充電を経て春からライブ活動開始。 最初のステージはDomingo Salsabor(ドミサル)でのミニライブだった。 このあたりからTimbal小幡が参加できなくなりだした。 このドミサルと5月のミタムラーノの披露宴では、Hydeが唄う合間にTimbalを叩くということで やりくりすることになった。いかにも苦しい構成であった。

恒例新舞子サルサフェスは、例年の開催場所KOKOMOが3月に閉店という事態、 一からの会場探しとなり、結局大須EMSで「大須サルサフェスティバル」となった。 しかも前年中止となったHailaMonpieの来日ツアーが7月との事前情報から、例年より1ヶ月早い6月 の開催という余裕のない日程(結局Hailaは7月に本当に来日したもののツアーはなく夏の間ハウステンボスにいた)。 また前の週には100%生サルサという、もうひとつのライブ イベントと、イベントが目白押しの中、開けてみてれば、116名の集客と夏イベントとしては やや不振な結果となった。おまけにHydeは数日前からのひどい風邪引き、当日になって新カンタンテ のペルアーノ、Toniさんはギャラがないなら唄わないと言い出す始末。期待の星だったが、 音楽への取り組み姿勢の差はいかんともしがたく、残念ながらこのステージが2回目にし て最後の参加となってしまった。
この大須フェス直前にはついにTimbal小幡から継続不能の連絡。万事休すという事態。
ここで思い至ったのがNueva GenetのCOCOさん。トラをお願いしてみると快く引き受けてくれた。
これ以降、彼はリトルワールド以降はついに正式メンバとなり、 Domesticoのリズム隊には大きな刺激剤となっている。
真夏のリトルワールドは名鉄も大変とのことで、過去3年間へのお礼として、ノーギャラでの 演奏を申し出た。
前後して7月と9月には月例イベントDomingo Salsaborに再び出演。 さらに、8月にはBirdにて外様企画(暫定:元々ササマ企画、元マササ企画)のメンバ不足を補う ついでに、2ステージ目をライブジャックしてしまった。
そして3回目のサルデコ遠征。
話がありながら、実らなかった営業話などもあったが、2002年もサルデコまでで8本と、比較的 多めのステージ数となった。
2002年はまた、プロバンドとの交流も多く新たな刺激となった。
大須フェスではSalsonesesの分厚いアレンジに感服。9月のドミサルでは一年ぶりにご一緒した Sabrosura Del Sonidoのさらにパワーアップした姿に参った。そしてChevereの完璧なステージ。 音が完璧だっただけに、集客面で我々のバックアップの力いたらなかったことが悔やまれる。 そして、10月には沖縄から上陸したKachimba1551。客席を巻き込んで楽しませるステージングには 我々にかけているものを見せ付けられた思い。 Kachimbaの面々と打ち上げが共にできなかったのは、返す返すも残念だった。

ちょっと寂しいLelolai20周年

さて、Domesticoの母体であるレロライ倶楽部の20周年であった2003年は、Congueraなっちゃんの結婚披露パーティで幕を開けた。わずか3曲であったがほとんどサルサには縁のないパーティ参加の皆さんには結構インパクトあったかな?千葉から淳子も駆けつけた。
この年はその後がうまく続かなかった。
夏イベントの画策をしていたHydeだが、KOKOMO後に入っていた店がまた変わることを知り、新舞子サルサフェスの復活をもくろんだものの、店との交渉はならず。また、8月にイベント出演打診もあったため、身動きとりにくくイベントも組めないでいるうちにそのイベント企画自体が没になった。そんなこんなで2003年は自主ライブのない年となった。
ステージ自体は、いくつかの演奏依頼をこなした。
7月には春日井サンマルシェの盆踊り大会アトラクション。10月には蒲郡ラグーナでのサルサパーティ。12月にはかねてからなかなか実現できなかった岐阜レオンでのライブ。
9月のサルデコは我々が参加しだしてから4年連続の雨だった。
2003年はなんと10年以上前に練習を見に来たことがあるという当時中学生だったドラマーのウンチク近藤君の参加、そしてカンタンテJoseの参加が大きい。
近藤君は、日程都合があいにくいCOCOさんの穴をうめ、振り返ってみれば2003年のほとんどのステージでTimbalを担当。もともとパーカッションを志望していたのに、中学生でドメスティコの練習を覗いて以降ドラムから入ってしまってグルーブという点では、まだまだ課題が多いが、早くドラティンをマスタして欲しいものである。
JoseはToniさん以来のネイティブのカンタンテ。味のある唄である。本来マリアッチ歌手なのだが、サルサを歌いたいとやってきた。
そして10月のラグーナで参加のTpボンベリートけんた。その後仕事の関係でなかなか参加できないが、また何とか参加して欲しいぶっとい音のTpである。
さらには、Domesticoボストン支部と勝手に命名した鍵盤打楽器奏者のファンキー千恵ちゃん。里帰りついでに、最初は木琴で練習に乱入。7月のサンマルシェでは、満を持してMallettoKATを投入したものの電源電圧低下のため機材ダウン(110V機器だった)。それにもめげずピアノの高音部を使ってのソロ!のプロ根性には頭が下がった。帰国時にはまた参加してね。

新婚ラッシュの2004年

2004年も早い時期からいろいろお話をいただくものの、なかなか結実せず。結果として7月、8月と連荘で自主ライブの上にManolito来日イベントが続くという無謀+多忙の夏であった。振り返ってみれば、7月10日、17日、24-25日、8月8日、8月13日と夏場だけで5本のライブ。サルデコはDomestico参加以来初の晴天!そして瀬戸Rinconの深夜ライブ、キーちゃんの関連で老人ホームでのボランティアライブ、締めくくりはチェピートとあかりちゃんの披露パーティライブ。締めて9本となった。
2004年からJoseの弟Juanが加入。フロントのペルアーノ兄弟がそろい踏みすることでバリエーションも増やせるベースができた。近藤君も定着。
また、無謀にもChevereの曲”Mira Que Bonita”に挑戦。老人ホームライブでリクエストにしたっがって演奏した”上を向いて歩こう~Sukiyaki”も将来フルバージョンでと思うひとつとなった。
2004年はまた、おめでたい年でもあった。3月にはマユミが結婚。特に披露パーティはしなかったが、有志で式に駆けつけた。そして、チェピートの結婚宣言、なんと相手はT-saxのあかりちゃん。バンド内結婚は初?ということでサルデコでもご披露、12月の披露パーティは盛況でバンド内ユニットのSonライブも飛び出した。Domesticoのお祝いライブも楽しくやらせていただいた。

ホーン隊当社比120%の増員だった2005年

さて、サルデコでも”DomesitcoがTimbaバンドになった!”と驚かれた21世紀型ドメスティコ。
確かにサルデコ初登場時の歌謡サルサ路線はどこへやら。Timbaナンバーあり、NYハイテンションナンバーありの展開。サルデコ2005では、ついにCuban Salsaと紹介されている。でも、2005年の新曲は、プエルトリコの元祖爆弾男Rafael Cortijoのヒットチューン”Bomba Carambomba”、しかもアレンジはNYならではの状況が産んだ異端児Angel Canalesのバージョン。
2005年初頭から、ホーンセクションが大幅増強となった。しかも皆強力な実力派。今後が俄然楽しみとなった。5月にはDe La Fantasia、7月に浜松、瀬戸Rincon、リトルワールドとこなして、そのパワー、厚みが増した。
一方で、新婚にして早くもおめでた!のあかりがリトルワールドのステージをもってしばらく産休となった。
9月サルデコでは”Bomba Caranbomba”でかなぴーさんことSalsonesesの金山さんに一曲お手伝いいただき、ついにSALSAMANIAへのオファをいただいた!(といってもおいそれといけませんが。。。)
10月は内海でのダンスパーティ、豊橋での映画イベントにDos Quiseosと競演。そして11月には得三でチカリンを呼んでの久々自主ライブ。
8月のNagoya Mano a Manoではチケット販売協力が規定枚数に届かず出演ドタキャンとなる事態もあり、自分たちの集客力のなさを思い知った苦い経験となった。

再び変動の2006年

さて、明けて2006年。新曲を仕込み始めたはよいが、なかなか始動しないDomestico。
折も折、今度は1999年以降リズム隊の一角を支えてきた山口君が自己のSONバンドを追求するため、脱退というピンチ。
2006年は結局サルデコと11月にiguchitoが請け負ってきたキンダーホルトでの演奏のみであった。サルデコではBongoとCoroに元マササ企画の足立さんを迎え、それでも新曲3つの暴挙。うち1曲、その後定番となるSukiyaki~上を向いて歩こうは、当時は歌うカンタンテがおらず、シラカベケイコさんをゲストに迎えての演奏。マノリートナンバーを2曲投入しTimba比率45%。
さらには、シンセも加えての過去最大規模の総勢17名。
そして11月のキンダーホルトを最後に、マユミが産休に入った。

2007年、チェピートが休団

マユミ産休のPFの穴を埋めたキューバ留学帰国組の志穂の加入で、またさらにキューバ傾斜が増加した感のあるDomestico。それでもピアノ交代からの復旧はなかなか時間がかかった。 この年は、カンタンテJuanの住む瀬戸は菱野団地とのご縁で6月と8月の2回にわたってお祭りでの演奏。また、ペルー人のお店Rinconでの2回目ライブとすっかり瀬戸づいた出だしであった。この間一連のライブではBongoのトラが頼めず、HydeがBongoに。
8月にはPF志穂のツテで某大学同窓会様御席での演奏。Timbalウンチク近藤も参加できず、久々にTimbal=Coco、Bongoに山口君という布陣。
また、6月の瀬戸菱野団地で、ゲストに迎えたカンタンテERIKOは、サルデコ2007から正式参加となった。
サルデコ2007では、Bongoにアルマンディート小菅さんを迎えて。
演奏途中からの雨という要素も手伝ってお客様が大いに盛り上がり2バンド目にも関わらずアンコールをいただいた。なお、このサルデコ2007をもってチェピート木内が育児と仕事を理由に休団となった。

2008年、ウンチク近藤歌手デビュー!

チェピートお休み、正Bongoは不在な中、2008年の初ステージは結局梅雨まっただなかの58月Goyamoon。ワンマン2ステージを維持するのは相当な困難であった。結果として埋め草選曲ともいえるものになりペルアーノ兄弟の布陣で埋めていく形に。が、将来への布石としては、Maria Cervantesの再演(しかもDelsol版アレンジベース)、そして、Cantando Vivireで近藤君が歌手デビュー。
このあと2008年末にかけて、あらたなピンチ到来。58月ライブ直後から、この数カ月は、Congueraなっちゃんがお休み。急なことでこれ以上トラという状態もままならず、Hydeが1999年以来9年ぶりのConga復帰となった。あおりを受けてレパートリは大幅縮小。しかしながら、新加入ERIKOの持ち曲増加要求もあり、La Ruedaを投入、バタ(Iya)音の変わりにジェンベを使用してみた(があまりよくなかった模様)。このサルデコ2008からもう一人PFにやはりキューバ留学帰国組の茜が参加。
サルデコ後の11月には、愛地球博でキューバとフレンドシップであった岩倉の岩倉南部中学様から御声がかかり、南中フェスへの出演。前夜朝までライブだったJuanは途中でくたばってしまったが、オリジナルのオープニングテーマ、キューバと親しみやすさということで日本語歌詞のGuajira Guantanameraと工夫を凝らし、全校生徒が参加しての感動のラストを迎え、元気をいただいた。

2009年、脱ペルアーノ依存にむけて再起動

さて、2009年。2008年後半から、Juanが自己のバンドを結成し、リハ参加頻度も格段に減った。幸い、2008年末からなっちゃん復帰。また、皮モノに今泉君が加入。曲折あったもののBongoにチャレンジしてくれることとなり、ここで久々にBon, Con, Timにトラなしの状態となった。ERIKOの持ち曲増加計画も進行し、Bemba Coloraを追加。近藤君についても持ち曲増加。
2009年は7月Urbana Latinaで再びワンマン2ステージ。脱ペルアーノ路線もあって、インストを追加など、冒険も。10回目参加となったサルデコ2009も近藤君2曲とした。
Canando Vivireでは我々にとっての同曲の元祖、当時のOrq.Del Solに在籍された吉田憲司さんをお迎えした。
そして2003年のJose、2004年のJuan参加以来続いてきたペルアーノフロント布陣は、このサルデコ2009が最後となったかもしれない。すでにJoseも離れ、Juanも自己のバンドでの活動をメインするため休団した。
Domesticoとしても2009年に入ってから、脱ペルアーノ依存を進めてきたこともあって、11月には日本人のみでのライブを敢行、課題は多いものの希望は持てる内容で再スタートを切った。

2010年、2011年

2010年は本番3本。
6月、料亭か茂免での結婚披露パーティー演奏
7月 得三で初ワンマン
9月 サルデコ2010

初演:Mango Mangüe/ A Mi Manera/ Vengan Todos A Bailar/ Tres Lindas Cubanas
近藤君曲の増加、特筆はTodo Tiene Su Final投入
Quitate De La Via Pericoも育ってきていた。
サルデコ2010直前にTb眞鍋氏が転勤で休団。

2011年ステージはサルデコ2011のみ。
東日本大震災の影響はメンバの勤務にも影響し、A-Sax森崎氏が一時休団。
Tbに新たに女子2名とギロ専の柴田氏が加わっている。ここまでで今泉君が休団。またサルデコまでに茜が転居で休団。
ERIKO y Shihoキューバ録音から採用のSukiyaki2.0。またDespués de Todoにチャレンジ。

2012年

2012年は本番2本。
GW 得三。
真野倫太郎Somos Los Maximo、Aqui EstanというTimba系バンドとジョイントで5月得三でキューバンスペシャルライブ「Trianglo Salsa Cubano」。Bongo不在でHydeが叩く想定だったが、当日、トラ参加していたかせっちに、Domesticoでもトラをお願いし快諾。
初演:No Me Ames。ここで「マーク近藤」なる呼び名ができた。

9月 サルデコ2012

空席BongoにはPedro Araujo氏。
ここまででTp岩田氏が休団。

2013年 ERIKO産休で代打Yuqui-lah

2013年は本番3本。

5月12日 岡崎シビックセンタースプリングフェスティバル。
ERIKOが産休で代打としてちょっと前から名古屋近辺在住のYuqui-lahがCantante参加。
Bongunny Sideに新玉君が参加。マーク近藤はTimbal~Tb~Cantanとマルチに活躍した。

6月15日 Sunny Side
2000年11月以来のGrupo Cheveleとのジョイント。(Chveleの名古屋ライブ自体はその後2001年、2002年とDomesticoバックアップでのワンマンライブがあった)
Yuqui-lah代打継続。Bongo空席のまま。マーク近藤CantanteのVen VenではHydeがTimbalにCoro。
このライブを見に来ていた岡崎君がライブ後参加表明。

11月3日 Cafe Macondo
2013年は、サルデコがこの日の開催となり、場所も甲府駅前よっちゃばれ広場に移動。出演バンド選定も従来と基準が異ったあおりで声がかからず、その代わり、以前から話があったMacondoでの演奏依頼を受ける話になった。ただし、Macondo立地の都合で小編成でという注文もあり、管はFlのみ。
サルデコに出ることになったスンプーニャに参加のなっちゃんが欠席のため、CongaはHyde。
Bongoに岡崎君が初参加でCoroも担当。Yuqui-lahもサルデコ参加で不在だったが、ここからERIKOが産休から復帰。El Bodeguero初演。

ターニングポイントの2014年

2014年。

1月26日 本郷Almadillo。
ERIKO産休明けで代打Yuqui-lahとの交代ライブを本郷アルマジロで開催。集客9名と初回ライブと並ぶ最低集客だったが、ここが分岐点ともいえた。
Tb女子2名が前年後半で不参加決定からオジキート太田氏が参加。単身赴任中のiguchitoが久々参加。
Yo No Me Parezco a Nadie, Un Puesto Vacante初演。
なおこのライブを見に来ていたJuanitoがのちに参加表明し、その後の変化をもたらしている。

7月27日 小牧Spa Gala
TpにJuanitoおよびJuanitoのつてでTp酒井氏、BTbケンジート、Coroに直美さんが加わり、夏場の営業演奏。

9月5日 Vivela! Salsa@Club Quattro
2005年痛恨の直前キャンセル以来久しぶりに声がかかったTiempo主催の来日ツアー名古屋公演OA。
メインは前年と同じEl Gran Combo de Puerto Rico。
近藤君欠席のため、TimbalはHyde。当初出席が危うかった岡崎君に代わってBongoをB君に依頼。
フロントはERIKOにYuqui-lah、Coroに直美さんと結局当日間に合った岡崎君。
Toro Mata初演。

11月2日 サルデコ2014
前年に開催時期を変えていたあおりでこの年もサルデコは11月開催。
9月以降さらにメンバが増殖し、Domestico史上最大の9管編成。
TbにMaquita、B-Saxにマヤ、A-Saxにユーキ
ただ、日程が決まるのが遅かったこともあり近藤君・岡崎君が不参加。
近藤君希望で仕込み始めていたCantare con Una Orquesta初演。CantaにはOrquesta De ごじゃる!のPechoraさん。また、No Puedo Quitar Mis Ojos De Tiはサルサアレンジとしては初演だが、Can’t Take My Eyes Off You曲としては2001年新春以来。

11月9日 Salsa Descarga@Vio
近藤君のツテで出演が決まったイベント”Salsa Descarga”
単身赴任中のIguchitoを除く現状フルメンバ出場で8管。プレゼンタのTenor Saxアツシさんを迎えてのDescargaチューンも。
近藤君CantaでのCantare~、Descarga Total初演

2015年~2016年

2015年からは大編成でDomestico史上としては怒涛の演奏機会を得ている。
ステージ数は2015年8本、2015年9本。
なお、このあたりからマーク近藤歌唱時および欠席時のリズム隊をBチームと称し始めた。

2015年1月25日 人権×難民×サルサ@YWCAホール
同年2月7日 某大学同窓会様賀詞交歓会(クローズド)@某中国料理店
同年2月15日 ガス燈キューバナイト
2016年7月 つくでの森の音楽祭さぎ草コンサート
同年10月 Social Tower Market
同年12月 某業界団体クリスマスパーティ演奏

そして、定例イベントとしては、4月の覚王山春祭、大須ラテンアメリカフェスティバル、5月のLatino America’s Festival、2014年からOAのオファーをいただくようになったVivela!Salsa。サルデコは残念ながら2015年にFinalだったが、このあたりから荒木先生らSalsa24のダンスとステージ上でのコラボが始まった。その縁からSalsa24の11周年イベントでの演奏機会もいただきSocial Tower Marketと2daysも経験。

Domestico初の夏合宿練習も実施。

2015年秋には、また、名古屋ラテンバンマスサミット@かのうなどがあり、そこから準備を開始し、
2016年3月26日 @Plastic Factory RisaGozaとのジョイントライブ企画がようやくここで結実した。久々の自主ライブで100人超の集客。

この間の投入新曲
Yo No Se Mañana (Cantan:岡崎)
Soledad (Cantan:マーク近藤)
Cucala (Cantan:ERIKO)
Timbalero (Cantan:マーク近藤)
Quimbara (Cantan:ERIKO)
Ladron de tu Amor (Cantan:マーク近藤)
I Want you back (Cantan:ERIKO)
White Christmas(Branca Navidad)

初ライブから30周年の2017年

1987年11月3日初ライブ起算で30周年となった2017年、ステージ数は10本。
危ういバランスの中フルオルケスタでの一つのピークの年といえよう。歌手もMIMI, ナカーニョ, Hose Rodriguezと3名増加。

2月19日 Maharaja
4月8日 覚王山春祭
5月14日 Latino America’s Festival
7月2日 Yuqui-lahさん在籍のGuarapo de la Bombaを迎えての東西対決@Mr.Kenny’s
7月9日 Small World Expo@Island cafe Kakai
11月3日 30周年記念ライブ@得三(集客は前日Sold outの141名)

遠征3つ。
8月5日 Cadena Latina Grande
この年からなんと3年連続での出演。
9月17日 台風接近の中Saldeko復活祭。
そして11月19日 ついに聖地Crocodileへの出演を果たした3都市対決。仙台サルサ2号さんとも初顔。

12月3日 安城市梨の里小学校子供会連合クリスマス会
この日がnomurando最後の参加となった。

歌手大幅増員もありこの年の投入曲は多彩。このころからアレンジの難易度も高くなってきている。
Meu Amor é (MIMI SaldekoのみDejito)
Mi Ritomo Llegó (ERIKOのちにマーク)
女神 (マークのちにナカーニョ)
Usted Abuso (ERIKO)
No Vale La Pena (マーク y Hose Rodriguez)
Nadie Se Salva de La Rumba (ERIKO)
美女と野獣 (ERIKO)

2018年~2019年

2018年、ステージ数は6本。nomurando休団の後ベース奏者にこれまた強力なルート大西が参加。Alto Saxには川越氏が参加。

3月25日 ガス燈。かつてのメンバーもっきん千恵こと鈴木千恵さん率いるLatin Trio Project名古屋公演のOA。
4月30日 Maharaja
5月6日 Latino America’s Festival
8月4日 Cadena Latina Grande
8月29日 Vivela!Salsa
11月3日 Lelolai俱楽部35周年ライブ@good’n cool

投入曲
Salsa (Hose Rodriguez) フルバージョンおよびバンドテーマバージョン
La Vide Es un Carnaval (Mimi)
El Cantante (ナカーニョ)
Cachita (Mimi y Hose Rodriguezまたはナカーニョ)
Que Viva Chango (ERIKO)
Moreno Soy (ナカーニョ)

2018年をもってMIMIが休団。

2019年、ステージ数は5本。サクマーノが産休育休のあおりでBongoにノブト君が参加。Tpにエリちゃん参加。初の三重県遠征、公会堂地下のCoffeeRumbaイベントは半ば自主ライブといえた。

5月11日 津ぅのドまんなかジャズフェスティバル で初三重県
8月3日 Cadena Latina Grande
8月28日 Vivlela!Salsa@Club Diamond Hall
9月15日 LOVEラテンフェス@la la ポートなごやみなとアクルス
11月24日 Cafe de Salsa in Koukaido Live Special@coffee Rumba

投入曲
パプリカ(Merengue Ver.) (ERIKO)
Indestructible (マーク近藤)
Dejame Soñar (Hose Rodriguez)
El Negro Bembon (ナカーニョ)
Cuando Cuando Cuando (ERIKO)
リバーサイドホテル (Hose Rodriguez)

コロナ禍の2020年~2021年

2020年はHose Rodriguezこと小瀬澤健太郎が名古屋勤務を終えて東京へ戻ることを受けて、彼を中心に「小瀬澤祭」を開催。ここを起点にさらに積極展開していこうとしていた矢先、それから3年続くCovid19、いわゆるコロナ禍となってしまった。コロナ禍においては、結局リハ頻度も1991~1993年の冬の時代にも匹敵する少なさで数か月リハなしも続き、モチベーション維持も難しくなっていた。

2月22日 小瀬澤祭@Lion Theatre
コロナ禍本格化直前ギリギリのタイミングでの開催だった。

投入曲 いずれもHose Rodriguez 2ndo:Dejito
Si No Eres Tu
Lluvia~Agua Que Cae del Cielo (Son 14 Ver.)

2021年は引き続きコロナ禍行動制限が続く中、春のLatino America’s Festivalを開催するかも?とオファーがあり、職業柄サクマーノの参加がNGのために探し当てたBongoceroが加藤君だった。ただ、結局行動制限の関係から開催は断念。秋に少し行動制限が緩んだ時期に、中国への転勤が決まったMaquitaの壮行ライブを人数制限の元敢行した。

10月9日 Maquita壮行ライブ@ABC Cafe
動画再生リスト

35周年の2022年

35周年となる2022年Dejitoが奄美へ移住表明。
バンドは残ったメンバで維持されていくことになり、再開されたVivlela!salsa2022では、Dejito不在のまま新バンマスJuanitoのもと参加となった。

9月21日 Vivlela2022 動画再生リスト

11月26日には35周年記念ライブ@ABC CafeをDejitoも参加で開催。

そして新しい地平へ…

Dejitoが始めて以来むしゃらに、ただ進んできたDomestico。
2022年に至り、ホーンセクションもリズム隊もかなりな増強を重ね、Coro隊は精鋭を配置、と様変わりを進めてきた模様。かつて「踊れない」と評された時代はどこへやら。分厚い音で躍らせるバンドという評価も得つつあり、すでにバンドを離れた身としてもこの先が楽しみである。

https://conjuntodomestico.com/conjunto-domestico%e5%85%a8%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%bc%e3%82%b8%e8%a8%98%e9%8c%b2%ef%bc%88%ef%bd%9e2022%ef%bc%89/

東海地区サルサ年表(~1989年まで)